第29話

―――…




千草桐鵺は今朝から号泣していた。




「だっぱ、おで、ででたんとでだったどは、ずんべいだったんだば!どうどぢかがんがえだべだい……っ!!」



「何言ってるのか、さっぱり分からないんだけど。この変態どうにかしてよ、静ちゃん」



「俺には無理だ。……今朝からこの状態なんだよ」



しかし流石、俳優。仕事となればきっちり顔を作る。……専属メイクの栞は顔をぐちゃぐちゃにしやがってと怒り狂っているけれど。



百々と静雄は事務所でこの状態の桐鵺に冷たい視線を送っていると、『そういえば』と百々が桐鵺に話しかけた。




「千草くんって、寧々を追っかけて芸能界に入ったって言ってたよね?」



「……ぞれが、何?」



備わっているティッシュで鼻を噛んでから、彼女の言葉に返答した。目と鼻が赤い彼にドン引きした彼女のことはさて置き。




「でも前にスカウトされたって寧々から聞いたんだけど、どういった経緯でこの事務所に入ったわけ?」



彼女の言葉にぎくりと体を震わせた隣に座っていた男に、百々は冷たい視線を向けた。まさか、と思う。



目が合わない。意図的に目線を外している池崎静雄という男をジーっと見ていたのだが、『ああ、それね』と桐鵺が切り出した。









―――…




千草桐鵺という男は中学生に入った頃から、とにかく女性に囲まれる人生を送っていた。



最初に彼女ができたのは中学1年生の時で、セックスを経験したのは中学2年生の時。そんなのはゴミ同然だというふうに特別でもなんでもない仕方で童貞を捨て、兄の亜蓮には信じられないような目で見られたのは彼にとてもまだ記憶に新しかった。



その辺りからだろう。





「君、芸能界とか興味ない?」



「は?」



街中を歩いていると、スカウトマンと言われる男に声をかけられるようになった。正直、彼にとってそんなものは毛ほども興味なく、断り続け、モデル、アイドル、タレント……ありとあらゆるものから声をかけ始められた時には嫌気がさしたほどだ。



高校生になってからもそれが収まることはなく、そろそろ本気で怒鳴りつけてやろうかと思っていた矢先だった。






―――…寧々と出会った。



毛ほども興味がなかった芸能界に一気に関心が高まり、それからは声をかけてきたスカウトマンの名刺をきちんと貰うようにして、どの事務所かを最初に確認するようになった。




「ねえ、モデルとか興味ない?ウチには長内立野おさないりつやがいて」

「興味ないっす」






「君、かっこいいね。アイドルとか向いてるよ」



「事務所どこっすか?」



「ウチは長谷川はせがわエンターテイ」

「あ、結構っす」




大手のアイドル会社から小さな事務所まで。しかし、たったの一度も、彼の推しの事務所の人間に出会えることはなく、半ば諦めかけていた。






―――…運命だと思っていた寧々ちゃんと交わる人生はこれからもねえのかなー。








あっという間に大学の卒業式。



それなりの法律事務所に内定が決まって、この4月から彼は社会人として生活をしていくことになっていた。



スマフォの待受画面には寧々の4周年目の時のファンミで撮影許可が降りた時に撮った今までで一番ベストショットの笑った彼女が映し出されており、彼女と結婚するという夢を諦めた方がいいのではないかと弱気になり始めていた。



18歳の時に彼女と出会い、4年というまだ短い片想い人生をこれからも続けていいのかと思っていた。もちろん、彼女を思う気持ちは誰にも負けないつもりではいた。それでもこのまま待ち続けるだけでいいのかという気持ちがふつふつと溢れ出ていた。



そうだ。彼女とは運命で繋がっているはずだ。だからこそ、自分から行動するべきではないだろうか。




―――…しかし、どうやって寧々ちゃんに近づこうか。



そう考えて、卒業証書を手の中で握った時だった。







「あの……ちょっといいですか?」



「はい?」



振り返るとそこにいたのは、30代くらいの知らない男。卒業式が終わってから何人もの女性に声をかけられていたので、男性だったことにホッとした。



しかし全く面識のない男だったため、一体何の用だろうかと顔を顰めた時だ。




「あ、怪しい者じゃないんです」



「(怪しい奴が使う常套句だな)」



内心そう思いながらも、こういう切り出し方に慣れている桐鵺は『ああ、何かのスカウトっすか』と先に声をかける。




「え!すごいね!分かる?」



「まあ、何回か声かけられたことあるんで」



「そうだよね。かっこいい顔してるもん。じゃあ、ウチの小さな事務所が声をかけても無駄だったかな」



胸元から出そうとしていた名刺入れをまた戻そうとしていたため、それを引き止める。



名刺を貰うのは損ではない。とりあえず貰うだけ貰っておいて、いつも通りに断ればいいかなと思ったその時だ。










「まだ小さい事務所だけど、今度、男性タレントを加入しようと思っててね。SKエンターテインメントっていう事務所で……ああ!Strawberryっていうアイドルがいる事務所なんだけど、興味な」

「サインします!契約します!今すぐサインします!契約書はどこですか!?」



「………………え????」



先程までクールに対応されていたのに、いきまり差し迫ってきた彼に声をかけた当時の池崎静雄の方が驚いて一歩後ろに下がった。





誰が思うだろうか。



こんなイケメンが、事務所の稼ぎ頭であるStrawberryの寧々のストーカーだと。







そうして千草桐鵺は無事、寧々との対面を果たすことになるのだった。








―――…




「静雄さんにはとても感謝しているよ。あの時、静雄さんが声をかけてくれたことによって、俺は寧々ちゃんと超自然に出会えたことになったからね。でも神様は見ていたのかもしれない。俺があの卒業式の日に諦めるのはまだ早いと考えて寧々ちゃんに会いに行こうと決めたその瞬間に、神様は手を伸ばしてくださった。そう!静雄さんがタイミングよく声をかけてくれたんだ。これは寧々ちゃんと俺を引き合わせる運命だったと言っても過言ではないだろう。そうだ!つまり俺の『寧々ちゃんと結婚する』という夢を叶えてくれたのは静雄さんだと言っても過言ではない!!!」






「……静ちゃん、アンタのせいでうちの寧々はストーカー野郎に捕食されたんだけど」



「すまん、責任を感じている」



「アンタが弟の大学の卒業式にさえ行かなければ、アンタがあの男に声をかけさえしなければ……うちの寧々が、あんな変態に捕まることはなかったんだけど」



「すまん!!!桐鵺の顔が良かったんだ!!!どうしても声をかけずにはいられなかったんだ!!」



数多のスカウトマンの目に留まっていた桐鵺を手に入れた時には社長に大喜びされ、今でもこの逸材を手にいれた自分を褒め称えたい時も多々あるが、彼の本性を見る度に思う。





「うーん、今日の待受はキュートな寝顔の寧々ちゃんがいいか、それともうなじがばっちり映っているお風呂上がりで水が滴るセクシーな姿の寧々ちゃんがいいか……くっ、迷う!!」



―――…本当に俺のあの時の判断は正しかったのかって。




どうしてもその時の判断が良かったと手放しに喜べない、池崎静雄(独身)であった。





「奥様は幸せです」


旦那様はその1億倍も幸せです

……奥様はきっと知らない方が幸せでしょう

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