第4話
透明な水でできた身体を持つ女性は「どのような望みを叶えて欲しくて、こちらにいらしたのですか?」とトーリに尋ねた。
「望み、ですか?」
透明な美女を前にして、トーリは緊張している。
彼は今まで人と会話をしたことが極端に少なく、女性と世間話をしたことなど身内を除いては皆無である。
暴漢と間違えて、一方的に悲鳴をあげられた経験があるくらいだ。
なので、どこを見て話せばいいのかもわからないで困り、彼は視線を透け透け美女の向こうの風景に向けて喋った。
「どこのどなたか存じませんが、この地にはそのような決まりがあるのでしょうか」
「あら、知らなかったとおっしゃるの? ここは迷いの森の奥深く、辿り着くことが困難な『古代の深淵』と呼ばれる湖水ですよ。人々の間では、『叡智が宿るその水をすくって飲むと、ひとつ望みが叶う』と言われているでしょう? 実際はわたしが叶えるのですけれどね。まさか、本当にご存じない?」
「無知で申し訳ありません。実は、僕はこの世界に来たばかりなんです」
「何かご事情があるようですね」
頼る人が誰もいないトーリは、水の中から現れた不思議な美女にこの世界にやって来た次第を説明した。美女が彼の話を熱心に聞いてくれたので、トーリは嬉しくなった。
(僕は、会話をしています! すごい、ゲームキャラを見ながらではなくて、ちゃんと向き合って会話をしています、これはすごい経験です)
聞き上手な美女はトーリの言葉に「まあ」とか「それは大変!」などと合いの手を入れてくれたので、話しやすい雰囲気になる。彼は次第に相手の顔を見られるようになり、わずかな間にコミュニケーション力を上げて、普通に会話ができるようになっていた。
「というわけで、僕はこの世界で生きていかなければならないんです」
「なるほど、波瀾万丈な人生を送られていたのね。数々の辛い経験をなさったけれど、新しい人生が始まったのは幸いです。それではトーリは、この世界に生まれたばかりの赤ん坊エルフということになりますね」
トーリは力無く笑い「なんの力も知識もなく、困り果てた赤ん坊です」と眉をへの字にした。
「そうですわね……それならば迷いの森を抜け、まずは人の住む町を目指すといいでしょう。幸いなことに、この森を抜けてしまえばすぐそばに町がありますから、歩いて辿り着けるはずです。名乗るのが遅くなりましたが、わたしは湖水の精霊アクアヴィーラです。あなたを町に導くように、森の精霊にお願いして差し上げましょうね」
その時、了解した、とでも言っているかのように木々がざわめき、トーリが振り返るとそこに新たな道が現れた。
「ご親切にありがとうございます、アクアヴィーラ様。とても助かります」
トーリが日本人らしく、身体を九十度に曲げた深いお辞儀をすると、アクアヴィーラはまた笑って「なんて丁寧な方でしょう」と満足そうに言った。
「精霊に礼を尽くす姿が気に入りました。あなたはようやく、外見と内面が釣り合ったみたいですわね。これからもその気持ちを忘れずにお過ごしなさい。さあ、この水をお飲みなさいな。きっとあなたの助けになるでしょう」
「ありがとうございます」
トーリは跪くと手で湖の水をすくって飲んだ。
「美味しい! とても美味しい水ですね、まさに名水です」
冷たくて、喉を通ると爽やかな甘さが感じられて、身体の奥底から清浄になるような不思議な水だ。
「こんなに美味しい水が飲めるなんて、たとえ願い事が叶わなくてもここに来られて幸運だと思います」
「あら、嬉しいことをおっしゃるのね。もっとたくさんお飲みなさい」
勧められたトーリは、遠慮なく美味しい水を堪能した。
「ごちそうさまでした」
美しい精霊は笑顔で言った。
「それだけ飲めば、三日間は水を飲まなくても大丈夫なはずですよ。それから、あなたには人を癒やす魔法が授かりました。旅の助けになるでしょう」
「もしかして、僕は回復魔法が使えるようになったんですか?」
「最初はごく小さな力ですが、熱心に鍛錬なさると上達していきますよ」
「ありがとうございます、助かります」
「あなたはとても心が美しい若者ね。わたしの加護も授けますわ。それは魔法を学んだ時にあなたの力となるでしょう。ぜひまたお会いしたいものだわ。再会を願い、水の中からトーリの幸運を祈りましょう」
「お気をつけて、良い旅を」と言うと、アクアヴィーラは湖の中に消えていった。
トーリは満足そうにため息をつき、身体の力を抜いた。
他人との会話に慣れていないし、相手が美しい女性だったため、かなり緊張していたのだ。
「アクアヴィーラ様はとっても親切な精霊さんでした。こんなに誰かと話をしたのは生まれて初めてですよ、一生分の会話をしたような気がします。しかもあの方、今まで見たことがないくらいにとっても綺麗な女性でした……こんな僕に優しくしてくださって、ありがとうございます。素晴らしい体験でした。きっとお礼に伺いますね」
トーリは湖に向かって頭を下げると、森の中にできた道に足を踏み入れた。
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