第84話

稚沙ちさはその場で、それからしばらく働くことができず、ただただ呆然としていた。


(今のって、口付けされたのよね?私が椋毘登くらひとに……)


そう思うと、急にひどく顔が赤くなってきた。


「ち、ちょっと、これは一体どういうことよ!!」


そして彼女は恐る恐る、自身の口に指を当ててみる。


すると先ほどの感触が今も自身に残っている。彼の唇は冷たくて、少し乾燥もしていた。


それに無理やりされたのだから、彼をひっぱたいても良いぐらいだった。だが彼女にはそれが出来なかったのだ。


彼との口付けがとても心地よく、唇を離した時に見せた彼の優しい表情に、思わず胸を高鳴らせてしまう。


「どうしよう、私全然嫌じゃなかった。むしろもっと彼に抱きしめていて貰いたいとさえ……」


これまでの彼との会話や出来事が脳裏に浮かんでくる。

彼は少し意地悪ではあるが、本当はとても優しい青年だ。


「そうか、私は椋毘登のことが好きなんだ」


だが彼は自身の幸せよりも、一族の繁栄の方が大事だといっていた。


仮に椋毘登が自分に好意を抱いていたとしても、きっと彼は一族を選ぶだろう。


そんな彼をどうやって、自分は繋ぎ止めることが出来るというのだ。


(私また失恋しちゃうのかな?)


どうして自分は報われない恋ばかりしてしまうのか。そんな自分がひどく哀れに思えた。






一方椋毘登の方も、蘇我そがに戻るため馬を走らせていた。


「くそ、俺にどうしろというんだ。

彼女とは出会わなければ良かった。そうすればこれほどに心を乱されもしなかった」


(あの時、稚沙はとても真っ直ぐな目で俺を見つめてきた。あいつのあんな目を見たら、歯止めが効かなくなって……)


「俺だって本当はこんなこと望んでいない。でも他にどうすれば良かったというんだ!」


椋毘登はそういって、思わず馬の手綱を強く握りしめる。


だがそれと一緒に、ふと不思議な感覚が彼の中にはあった。


「でも何だろう、とても懐かしい感じがしていた。まるでずっと前からお互いが知り合っていたかのように……」


だが自分と彼女は知り合ってまだ日が浅い。過去に会ったことがある記憶もまるでなかった。

なのに懐かしさを感じるのは何故なのだろうか。


「一体何なんだ。生まれる前から知っていたとでもいうのかよ!」


彼はひどく自身の感情を取り乱すようにして、そういった。


(でも、稚沙はさっきの件どう思ったんだろう……まぁ、過ぎてしまったことはどうしよもないが)



こうして2人は、それぞれの気持ちや葛藤を胸に秘めたまま、今後についての想いを巡らせていく。

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