第10話 最後の時間

 私は安永さんと、何をどうしたいのか。

 

 安永さんの家まで歩きながら自分の考えを整理しようと試みたが、この先を考えようとすると途端に酸素が足りなくなったように胸がぎゅっとなった。身体の外からじんわりと圧を受けているみたいで、苦しくなる。

 

 私と安永さんの共通の話題は奥さんとプリンだけだったのに、その片方を失った今、私たちが顔を突き合わせて出来る話など片手ほどもない。

 

 今日が安永さんと話す最後の日になるかもしれない。

 形にしてこなかった不安を言葉にしてしまうと、その寂しさに私はまた泣きそうになった。


 久しぶりに訪れた安永さんの家は外観は何一つ変わらないのに、『家』として存在するための大事な何かが欠けているように感じた。人差し指でゆっくりとインターホンのボタンを押す。「鍵は開いていますので、リビングまでお入りください」と、くぐもった安永さんの声が答えた。

 

「お邪魔します」


 玄関の扉を開けると、かすかな線香の匂いが鼻をかすめた。言われた通り、私はリビングへ向かう。廊下には段ボールが積み上げられていて、私は自分の予感が限りなく黒に近いことを知る。


「安永さん」

「急にお呼びたてしてすみません。そちらでお待ちいただけますか」

 

 安永さんの声がキッチンから聞こえた。

 私はいつものようにテーブルを前にして、椅子に腰掛ける。

 遺影らしきものが見当たらないことに安堵したものの、そこかしこに漂う欠落した気配が、逆に『安永さんの奥さん』という人が現実に存在していたことを私に突き付けた。


「どうぞ」

 

 目の前に置かれたのは、白いココットに入ったプリンだった。

 私は顔を上げて、この日初めて安永さんの顔を見た。


 安永さんが安永さんであるために必要だった、とてもとても大事なものが損なわれてしまっていると、私の中の何かが告げていた。

 そしてその損なわれた大事なものが私ではないことに気付き、悲しく思った。


 腑に落ちるのは知りたくないことばかりで、本当に嫌になる。


 安永さんはこんな風に考えてしまう私のことなど、きっと知りもしない。

 最後まで知らないままでいて欲しいという思いと、最後だから全てさらけ出したいという思い。私の中でそれらが互いに罵り合いながら争っている。こんなに凶悪な考えを飼っていたことに、私は戸惑っていた。


「ポージィさん。最後にもう一度だけ、僕の作ったプリンを召しあがっていただけませんか」


 最後という言葉に、心が異常に反応する。

 痛い。

 その痛みに心の中で手を添えながら、私は頷いた。


 「いただきます」


 一匙すくって口へ運ぶ。

 これまでに食べたものとは比べものにならないぐらいの絶妙な柔かさ。

 滑らかに舌の上でほどけていく食感に、私は素直に驚いた。


「どうやって作ったんですか」

「黄身だけを使ったんです。その方が濃厚な味になるかなと思って」


 器の底までスプーンを差し込むと、カラメルソースが表面に溢れ出る。

 甘くて苦くて、切ない。


「妻が亡くなってから、ずっと作り続けていたんです。納得のいくものがやっと出来ました。間に合って良かった」


 そう言ってほんの少しだけ笑った安永さんの顔に、私は触れたいと思った。

 そうしないと安永さんが消えてしまうと思ったのだ。

 本当に、最近の私は嫌なことばかりが当たる。

 私は思い切って口にした。


「もう、会えないんですね」


 

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