第9話 連絡

 安永さんの電話から、三ケ月が経った。あの日以来、私の携帯電話に『安永さん』の文字は表示されていない。


 プリンをぱったりと作らなくなった私のことを夫は少しいぶかしそうにしていたが、「お前は飽き性だからな」の一言で片付けられた。あれこれ訊かれると面倒だと思っていたので、この時ばかりは夫が無関心な人で良かったと思った。


 水曜日の朝を迎える度に落ち着かない時間を過ごし、夕方が近付くにつれざわつく胸を必死で抑え、あっけなく過ぎ去っていく午後六時をただ見送った。

 

 「五時、か」


 私はテーブルに突っ伏しながら、目についた時計の針が指す時刻を声に出して言ってみた。発した言葉が頼りなくぽとりと落ちて、床に刺さっているような感覚に囚われる。


 水曜日。

 安永さんと出会う前、私はどんな風に水曜日を過ごしていたのか、もう思い出せなかった。

 

 そろそろ買い物へ行かなければ。

 冷蔵庫の中を確認しようと野菜室を開いた時、携帯電話が震えた。


「もしもし」


 安永さんの声が聞こえる。


「ポージィさん、お元気でしたか」

「はい、それなりに」


 安永さんもお変わりなくと言いかけたが、変わっていないはずがないと思い直す。


「ポージィさん、今日お会い出来ませんか?」

「今日ですか」

「はい。急な話で申し訳ないのですが」

「大丈夫です」


 私は答える。


「多分二十分ほどでお伺い出来ると思います」

「急なことですみません。ありがとうございます」

「いえいえ。では、また後程」


 通話ボタンを切る。

 

 安永さんに会える。

 もう会うこともないと思っていた、安永さんに。

 嬉しいはずなのに、鳩尾みぞおちのあたりがずきずきと重くて苦しかった。


 私の中にいる卑怯な私が「行きたくない」と言っている。

 避けて、逃げ続けていれば、少なくとも決定的なことは起きない。

 細くても薄くても、安永さんとずっと繋がっていられる。


 私は天井を仰ぎ見ながら、ふぅと息を吐いた。

  

 安永さんは何も言わずに私を切ることだって出来た。

 でも、そうはしなかった。

 会って、顔を見て、話をするつもりでいてくれたのだ。

 

 安永さんは、そういう人だ。


「やっぱり、優しいなぁ」


 思わずあふれた感情に、声が揺れる。

 私はティッシュで軽く目元を拭うと、鞄を持って部屋を出た。

 

 



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