第26話

すぐ目の前に空の顔がある。

ふざけているのかとも思ったが、そういう表情ではなかった。


「何、してるの」


恐る恐る尋ねると、彼は表情を緩めずに口を開く。


「先輩は、自覚してやってるんですか?」

「何を」

「無自覚なんですよね。分かってます」


怖い、と思った。

逃げようと思っても、手首を強い力で押さえつけられていてビクともしない。


「だけど男はすぐ誤解しちゃいますよ」


この状況がどういうことなのか、理解はできていた。

ベッドの上に、押し倒されている。

だけど、どうしてこうなってしまったのか分からなかった。


「誰もいない家に二人きり。シャワーを浴びてきたら、部屋に行く。先輩は部屋着で、俺以外の男は部屋に上げたことがないとか言う。そして極めつけに、ベッドに座ってる」

「待って、空」

「そんな状況で『何する?』って聞かれたら、誰だって誘われてるんだと思いますよ。先輩にそんな気がなくても」


何も考えずにした言動だったのに、どうやら間違っていたようだ。

まさかこんなことになるとは思わなかった。

だって空だから。

空がこんなことするなんて、想像もしなかった。


「こういうこと、俺以外の男にはしないでください。簡単に犯されますよ。男はみんな狼なんだから」


わたしは何も返せずに、ぎゅっと目を瞑る。

怖くて、何も出来なかった。


「先輩は、警戒心がなさすぎです。俺が襲ってくるとは思いもしませんでした? 俺のこと男だと思ってないんですか?」


空の手がTシャツの中に忍び込んで来て、わたしの素肌を撫でた。

体が固まってしまう。

こんな空は知らない。

いつも笑って変なことを言っている可愛い後輩は、ここにはいなかった。


「それとも、俺になら犯されても良いと思った?」


空がわたしの首筋に噛みつく。

わたしは小さな悲鳴を上げた。

チクリと痛みが走る。

今すぐ空のことを押しのけて逃げ出したいのに、体が竦んでしまって動かなかった。


「嫌だ、やめてよ、空」


震える声でそう言っても、彼の耳には届いていないのか、空は手を止めなかった。


「嫌だ!」


肌をまさぐる彼の手がブラのホックにかかった時、やっとのことで声を出した。

彼の手が止まる。

わたしは空から逃げるように、体を捻った。

すると、押さえつけられていた手首が解放される。

空が上体を起こしたのが分かる。

わたしは目を開けると、彼のことを強く突き放した。


「……すみません」


彼が力なくわたしから離れていく。

息を切らしたわたしは、俯く空のことを見ていた。

平手打ちをして「馬鹿」とでも言えば良かったのかもしれない。

だけどそんなことすら出来なかった。

今は彼のことが、ただ怖くて仕方ない。


「今日はもう、帰りますね」


ははは、と乾いた笑いを浮かべながら、空は立ち上がる。

そして部屋のドアノブに手を掛けた。


「服、借ります。俺の服は、捨てても良いですから」


そう言って、彼は部屋を出て行く。

廊下を歩いて、階段を下りる。

玄関に向かって、靴を履くと、ドアを開けて家を出て行く。

足音もドアの音も完全に聞こえなくなって、やっと涙が出て来た。


本当に怖かった。

悪いのは空だけじゃない。

彼の言う通り、わたしも悪かった。

きっと他の男だったら、こんな無防備な姿をさらさなかった。

空だから、大丈夫だと思ってしまったのだ。


わたしは、空の気持ちを本当には信用していなかった。

顔を合わせるたびに笑顔で「好きだ」と言ってくるから、その言葉の重みが薄れていた。

空がわたしのことをどれだけ好きでいてくれているのか、わたしは少しも分かっていなかった。

だから彼があんなことはしないと、勝手に思ってしまっていたのだ。


しばらく一人で泣いて、ようやく涙が止まったら自分の部屋を出る。

家族が帰ってくる前に、濡れた服の洗濯を終わらせて、乾燥機もかけた。

空は捨てて良いと言っていたけど、紙袋を探してきて、その中に服を入れる。

次に会う時どんな顔をすればいいのか分からないけど、これは必ず返さなければいけないと思った。



空が首筋に付けていった痕は、しばらく消えてくれなかった。

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