第47話

目を伏せるだけで抵抗しないわたしを見て、先輩は不思議そうな顔をする。


「逃げないの?」

「逃げてほしかったんですか」

「ううん、逃げないでほしい」


先輩の声がやけに甘ったるく聞こえて、心臓が跳ねた。

今は絶対に、先輩の顔を見れない。


「ねえ、俺が今から何しようとしてるか分かってる?」

「はい」

「分かってて、逃げないんだ?」


そう聞かれて、わたしは小さく頷いた。

先輩は嬉しそうに笑うと、わたしの後頭部を撫でる。


「馬鹿だなぁ」


そしてゆっくりと、唇が重なった。


きっとそれはほんの数秒間のことだっただろう。

だけどわたしにはそれがやけに長く感じた。


心臓が激しく暴れていて、気が狂いそうだ。

ぎゅっと目を瞑っていると、触れただけで離れていく。

恐る恐る目を開ければ、緩み切った表情の先輩と目が合った。


「確認だけど、今のが詩乃ちゃんの初ちゅーってことでいいんだよね?」

「そういうことになりますね」


わたしがそう答えると、先輩は笑いながらもう一度触れるだけのキスをして「はい、二回目」と嬉しそうに言う。


「ドキドキした?」

「今もしてます」

「意外とね、俺もしてるんだよ」


先輩は幸せそうな溜息を吐きながら、わたしを抱き締めた。

ちょうど耳が先輩の胸の近くにあって、速くなった鼓動が聞こえる。


「感想は?」

「卵焼きの味がしました。あと、ほんの少しだけ鉄の味も」

「うわー、現実味溢れるー」


そう言う先輩の声はすっかり惚気ていて、だけど自分も似たようなものなのだと思うと顔が見れなかった。


「俺に初めてくれてありがとね」


優しい声で、そう囁かれる。

そんなこと言われたら、大事に取っておいて良かったとすら思ってしまう。

多分このファーストキスの思い出は、何があっても後悔しないんだろうな、と馬鹿なことを考えた。


こうしているのがあまりにも心地よくて、昼休みじゃ足りないくらいだ。

わたしはまだ弁当を一口も食べていないけど、それを食べる時間すらも惜しい。


「午後の授業、サボっちゃおうか?」


先輩も思っていることは一緒のようだ。誘惑するような甘い声でそう囁く。

流されそうになりつつも、わたしは体を起こした。


「ううん、出ます」

「あれー? 雰囲気ぶち壊しー」


一気にいつもの調子に戻った先輩が残念そうに言う。

確かに一緒にいたいけど、わたしにも考えがある。


「だって、大学入りたいですから」


この高校に来たのは新妻先輩を追いかけてだった。

いまやそれは何の意味もなさなくなってしまったけど、無駄にはしたくない。


「それに、火影先輩と一緒にいるからダメになったって、言われたくない」


周りにも自分にも誇れるように、少し遠回りはしたけどちゃんと軌道修正はしておきたかった。

絶対に、後悔しないために。


「俺、思ったんだけどさぁ」


わたしの話を聞いていた火影先輩は、真面目な顔をして言う。


「詩乃ちゃん、いつの間にか俺のこと結構好きだね?」


わたしは先輩を見てニッと笑った。

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