第45話

わたしは腕を伸ばして、そのまま勢いよく先輩の首元に抱き着いた。


「ありがとう、ございました」


わたしは守られてばかりで何も出来なかったけど、せめて感謝の気持ちくらいは全部伝えたい。

そう思って強く抱きしめれば、思い切り傷にあたってしまったようで先輩が「うっ」と声を上げたけど、気にする余裕はなかった。


「すごく、心配しました」

「うん」

「先輩が、無事で良かった」


小さな声でそう呟けば、背中に手が回った。

そして力強く、だけど優しく抱き締め返される。

あんなに嫌だったはずなのに、この体温に安心する自分がいた。


「言ったでしょ、俺。詩乃ちゃんのためなら何だってするよ。詩乃ちゃんさえいてくれたら、何だって出来る」


重いくらいの愛の言葉も、鬱陶しいはずのスキンシップも、いつの間にか嫌じゃなくなっている。

何を考えているか分からないと思っていた笑顔も、今では火影先輩の感情が手に取るように分かる。

あんなに怯えていた非日常が、いつの間にか日常になっていて、それが壊れてしまうことが酷く怖い。


「だけど怖がらせちゃったね。ごめん」

「怖かったです。それでも先輩がいてくれて、守ってくれて、本当に良かった」


まるで迷子のように、どっちへ行けばいいのか分からずにいたわたしの手を引っ張って走り出してくれたのは火影先輩だった。

後ろから呼び止められて振り返ろうとした時も、前を向かせてくれた。

今、わたしが辿る道の先には、火影先輩が笑って立っている。


先輩にぎゅっと抱き着いたまま離れずにいると、火影先輩は「あーあ」と何かを諦めたように笑った。


「ダメだよ? こんな事されたら、詩乃ちゃんってば俺のこと好きなのかもーって誤解しちゃうでしょ。あんまり期待させないでよ」


明るいけど、少し無理をしているような口調だ。

表情が気になって顔を上げようとすれば、それを阻止するように後頭部を押さえ込まれる。


「いつかで良いって思ってたのに、やっぱり今すぐ好きになってほしくなっちゃうじゃん」


先輩はわたしの肩に頭を埋めると、珍しく静かなトーンで喋り出した。


「ごめんね。俺、馬鹿だし要領よくちゃんと生きていくのなんて無理なんだ。詩乃ちゃんに釣り合うだなんて思ってないけど、でも聞き分けも良くないから諦めるのも無理だよ」


その言葉を聞いて、だんだん涙が滲んでくる。

それが何故なのかは、自分が一番よく分かっている。


「好きになってもらえなくても、嫌われてても、今が最低ならこれ以上嫌われることも無いかなって。こんな暴力的な男は嫌だろうけど、でも今回だけだから」


違う、違うよ、火影先輩。


「だから詩乃ちゃんが、俺のこと好きになってくれればいいのに」


もう、傷つきたくなかった。

後悔もしたくなかった。

だからずっと否定してた。

だけどもう、この想いを隠し切るには、大きくなりすぎてしまったみたいだ。


わたしは先輩の服の裾をぎゅっと掴む。


「好きになっても、いいの?」


そう尋ねると、先輩が顔を上げるのが分かった。

わたしも顔を上げて、火影先輩の目を正面から見る。


「信じてもいいの? わたし、後悔しない?」


もう恋なんてしたくない。

そう思った傷が癒えるほど、まだ時間は経っていなかった。


それでも、もしかしたらこの人なら。

そう思えるくらいには、火影先輩と一緒に過ごしてきた。


「信じてほしい」


先輩はわたしの手を絡めとって、強く握る。


「俺の嫌な所はいっぱいあると思う。ムカついたらどれだけ詰っても殴ってもいいよ。だけど絶対に裏切ったりはしない。詩乃ちゃんのことを好きだって気持ちだけは絶対に揺るがない。むしろ、強くなるだけだから。後悔させないって約束する。だから、信じていいよ」


そう言って火影先輩は柔らかく笑った。

それが本物か偽物かなんて、疑う余地はない。


「約束破ったら、東京湾に沈めてやる」

「その前にちゃんと息の根止めてね」


わたしは一体これから何度、先輩と喧嘩するんだろう。

そんな未来を選んでしまうなんて、わたしも先輩もただの馬鹿だ。

それでも、そんな未来が一番、光り輝いて見えるのだ。

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