第34話

子供をあやすような手つきでわたしの背中を撫でながら、先輩は口を開く。


「ねえ、俺と約束してほしいことがあるんだけど」


顔を上げて先輩を見れば、珍しく真面目な表情をしていた。


「もしまた新妻が現れたら、何も聞かずにすぐ逃げて。あいつが本当に悪い奴か誤解かなんて、俺にはどうでもいいよ。俺は詩乃ちゃんが好きだから、他の男に渡したくない。他の男のせいで傷つく詩乃ちゃんなんて、絶対に見たくない」


そう言って、火影先輩はニッと笑顔を浮かべる。

いつものアホっぽい、明るい笑顔だ。


「俺のワガママ、聞いてくれない?」


そんなの、ワガママなんかじゃない。わたしのための忠告だ。

それなのにそれを自分のワガママということにして、とことんわたしを甘やかしてくれる。


「あの人の言ってることなんて、嘘に決まってますよ」


だけど、甘やかされているばかりではいられない。

わたしは大きく深呼吸してから、まだ濡れている頬を拭って、先輩に笑顔を向けた。

今度はさっきみたいに、下手くそな作り笑いじゃない。


「だからもう、あんな奴の言うことなんて聞きません。すぐに逃げます」

「ああ、俺のためじゃないんだ?」

「はい。先輩のためなんかじゃありません」


これでようやく、いつも通りだ。

強がりじゃなくて、本当に調子が戻ってきた。

そんなわたしを見て、先輩は安心したように笑う。


人に話すとこんなにも楽になるものなのか。

それとも、相手が火影先輩だからだろうか。

そんなことを頭の片隅で考えながら、壁に掛かった時計を見上げれば、もう少しでホームルームが始まる時間だった。


「もうこんな時間なんですね。行かないと」


立ち上がろうとすると、先輩が手を伸ばしてきて、指先でわたしの目元を撫でる。


「目、腫れちゃったね。教室じゃなくて、保健室に行こうか」

「そうですね、そうします。一人で行けるので、ついて来なくても大丈夫ですから」

「そう?」


二人で空き教室を出ると、先輩は立ち止まって「それじゃあ、ここで」と手を振ってきた。


「火影先輩」

「んー?」

「ありがとうございました」

「いいのいいの。こうやって優しくするのも、すべては俺を好きになってもらうためだから」


「好きになりません」とか「やめてください」とか返答はいくらでもあるのに、その言葉を躊躇ってしまった。

わたしは無視をしたということにして、先輩に背を向けて歩き出す。



「大丈夫、俺が全部背負ってあげるからね」



そう小さく呟いた火影先輩の言葉は、わたしの耳には届かなかった。


もしも聞こえていたとしたら、何かが少しでも変わったのだろうか。

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