第33話

先輩が選んだのは、前にも連れて来られた空き教室だった。

相変わらず、周りには一切ひと気がない。

先輩がドアを閉めたことを確認して、わたしは口を開いた。


「土曜の夜のことですよね」

「うん、嫌なこと思い出させてごめん」


先輩はわたしと向き合うと、包み込むようにわたしの手を握る。

そうされて初めて、自分の手が微かに震えていることに気づいた。


「何があったか、教えてほしい」


優しい声だ。

その言葉で、張り詰めていた気持ちがするすると解けていく。


家族には言えなかった。

昨日一日も、今朝も、何事もなかったように振舞っていたけれど、心の中は全然平気じゃなかった。

だからこの人の前では、震えも涙も隠し切れそうにない。


「……新妻先輩に、会ったんです」


わたしがそう言うと、火影先輩が息を呑むのが分かった。

数秒間が空いてから、先輩は恐る恐る口を開く。


「……新妻優斗?」

「はい」


彼がどんな顔だったか、どんな性格だったか、火影先輩はあまり覚えていないかもしれない。

だけど、わたしが好きだった人だということは、よく知っているはずだ。


わたしが肯定すると、手を握る先輩の力がぎゅっと強くなるのが分かった。


「何された」


そう尋ねる声はいつもより低くて、表情も険しい。

余計な心配を掛けまい、とわたしは笑顔を取り繕った。


「最初はただ、話しかけてきただけでした。あの事件は誤解だとか、わたしのことを気にしていたとか。そんな話、信じられませんけどね」


たった二日前のことだ。

思い出そうとすれば、まだ鮮明に蘇ってくる。


「怖くなって逃げたんですけど、『信じてくれ』ってしばらく追いかけられて……。先輩からの電話がなかったら、多分捕まってました」


あの時の恐怖が忘れられなくて、吐きそうだ。

強がって笑おうとしても、笑顔が上手く作れずに涙ばかりが溢れてしまう。

そんなわたしを見て、先輩は何も言わずに優しくわたしを抱きしめてくれた。

いつもならその腕を振り払っているけど、今はその体温がないと壊れてしまいそうになる。


「怖かったね」


先輩の手が、わたしの背中をゆっくりと撫でた。

その手に促されるように、また涙が零れる。

怖いだけじゃない、これは自己嫌悪だ。


本当は、怖かっただけじゃない。

だけど火影先輩はそんなことなんて知らずに、わたしを好きでいて優しくしてくれている。

そうやって甘やかされるままでいるのは、心が痛かった。


「先輩、ごめんなさい」


やっぱり黙ったままではいられず、わたしは抱きしめられた体を突き放すようにして先輩から離れた。

火影先輩は、少し困ったように眉を下げて微笑む。


「何が? どうしたの?」


そんな優しい目で見ないでほしい。

わたしは、先輩が思っているほど良い子じゃないんだから。


「怖かったのは、本当です」

「うん」

「でも、新妻先輩のことも信じたかった」


火影先輩は黙ってわたしのこと見つめ、懺悔するようなわたしの言葉を聞いている。


「みんなあの人の敵だから、わたし一人だけでも味方でいてあげたいと、少しでも思っちゃったんです。間違ってることは分かってます。そんなの馬鹿らしいっていうのも、分かってるんです」


今でもあの恐怖を引きずっている。

だけどそれ以上に、馬鹿な自分への自己嫌悪がやまない。


「でもそれ以上に……好きだったから」


なんであんな男を好きになってしまったんだろう。

どうして今でもまだ、好きな気持ちが燻ぶっているんだろう。

自分でも制御できない気持ちを持て余して、悔し涙が止まらない。


それでも火影先輩は、再び手を伸ばしてわたしのことを抱きしめた。


「詩乃ちゃんが無事で、本当に良かった。俺には、それがすべてだよ」


こんなわたしのことも好きでいてくれる先輩は、本物の馬鹿だ。

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