第29話

その時、わたしはどんな表情をしていただろうか。

心がパンクして、ありとあらゆる感情が噴き出してくる。

自分が今どんな思いなのかを、自分自身でも把握できなかった。


「元気そうだな」


新妻先輩は黒いパーカーを着ていて、フードを深くかぶっている。

そういえば、制服姿じゃない先輩を見るのは初めてかもしれない。

少し顔色が悪く見えるのは、街灯の白い光のせいだろうか。

頬がこけたようにも見える。


だけど優しそうな笑顔は何も変わらない。

その笑顔が、腹の内を隠した偽物の笑顔だと知っても、何も知らなかった時と同じように見えた。


「会いたくなかった、って表情だな」


ああ、自分は今そんな顔をしているのか。

引き攣った笑みさえ浮かべることができず、わたしはただ呆然と新妻先輩のことを見ていた。


「まあ、そうだよな。そんな顔をされても文句は言えないか」


落ち着け、落ち着け、と何度も心の中で唱える。

いつの間にか呼吸が浅くなっていたことに気づき、深く息を吸い込んだ。

混沌としていた脳内が、少しずつ整理されていく。

それでも、今自分がどう行動するべきなのか、その正解は分からなかった。


新妻先輩が、また一歩こちらへ足を踏み出してくる。

反応したわたしの体が、反射的に一歩後ずさる。

それを見た先輩は傷ついたような顔で、自嘲するように笑った。


「悪い、驚かせちゃったな。大丈夫か?」


大丈夫か、なんて、あなた次第なのに。


聞きたいことがたくさんありすぎる。

何を、最初に尋ねればいい?

必死に脳を働かせて、わたしはそれらしい質問をようやく口にした。


「どうして、ここにいるんですか」


震えて裏返った声は、先輩にも届くか怪しいほどの小さなものだ。

それでも新妻先輩は笑顔を浮かべて答える。


「どうして、って、俺の家もこの近くだからね。ここを通りかかったら、神山を見かけたから声を掛けただけだよ」


スラスラと淀みなく紡がれる言葉は、まるで事前に用意された台本を丸暗記しているかのようだった。

思えば、ずっとそうだったのかもしれない。


「ああ、聞きたいのはこういうことじゃなかったか? 俺がどうして普通に外を出歩いているのか、ってことなら、別に俺は逮捕されたわけじゃないから、ってことで納得してもらえるかな?」


笑顔は何も変わらない。

だけど耳に届く声は無機質で、気味が悪く感じる。

それなのに、この人の言葉を無条件で信用してしまいそうな自分もいる。

彼を狂おしいほど好きだった事実は否定できない。


わたしの中に、わたしが二人いるみたいだった。

二人とも、自分が主導権を握ろうと争っている。

気を抜くと、新妻先輩のことが好きだった昔の自分が、今のわたしを追いやってしまいそうになる。

そんなわたしの心情からまるでわざと気を逸らさせるように、先輩は間を置かず尋ねてきた。


「そもそも、神山は俺のことをどんなふうに聞いてるのかな。学校では噂に尾ひれがついて広まってるんじゃないかと思って」


肩を落として、可哀想な子犬のように。

台本のト書きにそう書いているみたいに、先輩はわたしを見つめる。

演技だと知りながら、わたしはその演技に魅せられたまま答えた。


「他校の女子生徒を妊娠させた挙句捨てて、その子を自殺に追いやったって……」

「あー、やっぱり。悪意があるなぁ」


呆れと絶望が混ざったように先輩は息を吐く。

演技だと分かっているから、洋画のオーバーリアクションのように見えた。


それなのに、心のどこかで同情してしまう。


「誤解だよ。確かに、俺は彼女を妊娠させてしまった。だけど捨てただなんて、誰がそんな酷いことを言ったんだ? 違うよ、俺はちゃんと責任を取ろうとした。だけど俺も動揺してたからさ、色々と返事とか対応が遅れちゃって。彼女もナーバスになってたし、意思疎通が上手くいかなかったんだ。それで誤解した相手が自殺しちゃったってこと。もちろん俺も悪いけどさ、半分は事故のようなものなんだよ」


身振り手振りに、表情も豊かだ。長台詞も練習したのか、一度も噛まずに言い切った。

そう思うくらいには、これがすべて演技だと分かっている。

分かっているのにどうして、こんなに心が揺らいでしまうのだろう。


全身が、逃げろと叫んでいる。

それなのに、肝心の足が動かない。


「本当に反省してるし、これからは彼女の分の人生も生きるつもりで頑張ろうと思うよ」


そんなセリフを笑顔で言う、この男のどこが良いんだ。

今も今までも、すべては人を騙す演技にすぎない。

詭弁に耳を貸さずに、一秒でも早くこの場から立ち去れ。


そう思う、一方の自分。


「ああ、でも本当に良かった。学校を辞めてからも、神山のことが気がかりだったんだよ」


優しい所が好きだった。誠実なところが好きだった。

この人が、噂通りの悪人であるはずがない。

みんなが敵になってしまった今、わたしが味方になってあげられずにどうする。


そう思う、もう一方の自分。


「図書委員の仕事はどうしてる? 勉強も順調か? 前は相談に乗ることも出来たけど今は無理だから、頑張り屋の神山が無理してないか心配してたんだ。でも元気にやってるみたいで、本当に良かった」


聞いちゃだめだ。

わたしだけが特別だなんて、思っちゃだめだ。

目を覚ませ、自分。


「そう言えば俺たち、お互いの連絡先も知らなかったよな。こうやって偶然会えたのも何かの縁だし、今更だけど交換しないか? これからも、話くらいは聞いてやれると思うよ」


そう言って新妻先輩はスマホを取り出し、さらに一歩こちらへ踏み出した。

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