第86話

武巳に髪をいじられるのは、前に一度だけカットしに来た際の、シャンプーの時以来。



あの時は何とも思わなかったが、



(何か……緊張する)



そう思ってしまうのは、今日はシャンプーだけでなくカットも武巳にしてもらうから、というわけではない気がする。



髪を束ねる武巳の優しい指先が顔や首筋に触れる度に、ドキドキしてしまう。



一方の武巳は、先程、恵愛のカットソーの襟元にタオルをセットした時に、ほんの一瞬だけちらりと見えた痣――カットソーでギリギリ隠れていた胸元の白い肌に、赤い所有印が刻まれているのを見てしまい、



「……」



何故だか一気に嫌な気分になり、けれどそれを極力表に出さないよう、無表情を貫いていた。



確か、今の彼女に恋人はいなかったはず。



けれど、明らかに付けられたばかりだと分かるあの所有印は、いつ誰が付けたのか。



援交もパパ活も、もう一切していないと信じていたのに。



そのために、家に帰りたくない日の避難場所として、わざわざ自分が彼女を受け入れていたのに。



と、そこまで考えて、



(待てよ……そもそも、川上さんが家に帰りたくない理由って……何なんだ?)



嫌な予感が、武巳の脳内を満たしていく。



「……川上さん」



「うん?」



武巳のシャンプーが心地良いのか、恵愛は気の抜けた声で返事をした。



「昨日、川上さんを泣かせたのって、誰?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る