20.第二政務室
朝日が、ノックされたドアを開けると、見覚えのある女性が立っていた。
見覚えがあると言っても、直接、会ったことはなかったので、すぐには思い出せない。
顔面蒼白で汗だく。髪も乱れていて、一瞬でただならぬ気配を感じとった。
「ええと……?」
「どこ、夜祭さんは?」
朝日が身元を確認する間もなく、強引に部屋の中に入って来ようとする。
「あの、待って下さい。どちらさま……」
すると、奥の方からネグリジェ姿で、濡れた髪をタオルで拭きながら、萌乃先輩が顔を覗かせた。
第二政務室に備え付けの、というか、つい先日「こう暑くちゃかなわんさ」と設置したばかりのバスルームでひと風呂浴びていたらしい。
ここは萌乃先輩の家か、と愚痴のひとつも言いたくなる。
「霧? いきなり、どうしたさ?」
そうだ、この人は、元生徒会役員の
確か、個人情報漏えい事件の張本人ではなかったか。
「萌乃さん。マズいことになりました。あの、白夜が」
「何事さ」
その名前を聞いて、萌乃先輩の顔が一瞬でこわばる。
それでもまだ髪の毛を乾かす手を止めないのを見ると、余裕が感じられた。
霧先輩が握っていた手を開いて、USBメモリを見せた。
「ここに、例の監視アプリの証拠が入っているって言われました」
「いったい何のことさ?」
いまいちピンと来ていない萌乃先輩に「とりあえず、これを」とUSBを握らせようとするが、萌乃先輩は今は両手が塞がっていると言いたげに、朝日を見た。
「中坊、ほら」
仕方なく朝日が受け取る。
そうして、開いているもう片方の手で、パソコンを立ち上げた。
だるい起動音が場違いに響く。
監視アプリなんて物騒な響き、聞き捨てならない。
「ちゃんと順を追って説明してくれないと、わからんさ」
「それが、突然、白夜が図書室まで訪ねて来て。
監視アプリのことを、洗いざらい証言しろって脅されて。
断ったら、今度は証拠を公開するからって」
ようやく萌乃先輩が事の深刻さを理解したのか、
「証拠って何さ。データはすべて消去したはずさ?」
「もちろんです」
ようやくパソコンが立ち上がり、朝日がPINコードを打ち込む。
セキュリティを心配して、長めの暗証番号にしていたことを後悔する。
「誰かが保存していたってことさ? まさか、おまえ」
「霧さんは何も知りません、本当です」
「このUSBには何が入っているんさ?」
「まだ見ていないので何とも……。でも、大量の資料を持っていたのは確かです」
パソコンに、推しアニメを壁紙に設定したデスクトップが表示されたので、朝日が震える手でUSBメモリを差し込んだ。
USBメモリの赤いランプが光る。
画面の右下に「フォルダーを開いてファイルを表示する」と出たので、慌ててクリックする。
そのほんのわずかな時間が、とてつもなく長く感じられる。
「霧さんは、夜祭さんの指示通り、ちゃんと消去したんだって。アプリのプログラムも、検証実験データも、生徒たちの個人情報も、証拠になりそうなものはすべて廃棄したんだって。本当だって」
「まだか、早くするさ」
萌乃先輩が朝日を急かして、パソコンを覗き込む。
ちょうど、自動的にフォルダーが開いた。
『秘』とだけタイトルがついたアイコンがひとつだけある。
「何が入ってるんさ?」
ダブルクリックして、中身を見た朝日が表情を失った。
その、開かれた四角い窓枠には何も入っていない。
「どうしたんさ?」
目を疑って、三度『戻る』ボタンを押して確認しても、そこにはやっぱり何もない。
「あの、空っぽです、何も入ってません」
「はあぁ。どういうことさ?」
萌乃先輩が霧先輩に食ってかかる。
「そんなこと霧さんに聞かれても……」
『秘』なんていうふてぶてしいタイトルをつけておいて、まさかファイルを入れ忘れたなんてことは考えにくい。
つまり、考えられるのは――
「ハッタリってことさ? ビビらせんじゃないさ!」
白夜は何も証拠を掴んでいないとうことか。
だったら、なぜこんなことをしたのだろう。朝日が首をひねる。
視線の先に、USBメモリの接続を知らせる赤いランプが目に入った。
ランプが瞬きをするかのように点滅している。
何かががおかしい。
次の瞬間、萌乃先輩のデスクの上で、スマホが震えた。
「何さね、こんなときに」
萌乃先輩がすぐに画面を見て、相手を確認する。
「非通知設定」と表示されていた。
嫌な予感しかしない。普通なら拒否一択。
すると萌乃先輩が「ほら」と言って、スマホを朝日に突き出した。
この人は面倒なことはこうやってすぐに人に押し付ける。
仕方なく受け取って、応答ボタンを押した。
しばらくスマホを耳に当てたまま、何も言わずに相手が名乗るのを待つ。
すると。ビデオ通話に切り替わった。
<―――会話は、すべて聞いた>
その顔を見て、三人が同時に相手を認識した。
「あ、さっきの!」
最初に声を上げたのは霧先輩で、萌乃先輩が引き継いだ。
「白夜んところの女さ! 確か……」
「壬生灯先輩です」
朝日は、背筋に冷却スプレーを吹き付けられたような悪寒を覚えた。
萌乃先輩に目配せをしてから、通話をスピーカーにする。
<もちろん、会話はすべて録音もさせてもらった>
「これは、なんのつもりさ」
萌乃先輩が、自分のスマホに向かって唾を飛ばす。
朝日はすぐにローテーブルの裏や周辺を見回して、盗聴器を探し始めた。
しかし、それらしいものは見つからない。
<やっぱり監視アプリの話は本当だったんだな>
「な、何の話さ」
<今さら否定しても遅い。証拠はすべて消し去ったと確かに聞いた。それが何よりの証拠だ>
萌乃先輩が歯ぎしりの合間から声を絞り出す。
「知らない、何も知らないさ」
<見苦しい>
盗聴器を探し続ける朝日の目が、USBメモリに吸い寄せられた。
さっきは気づかなかったが、ようやく違和感の正体に気づいた。
普通は点灯したままの、赤いランプがどうして点滅をしているのか。
「きっとこれです、萌乃先輩!」
朝日が強引にUSBメモリをパソコンから引っこ抜いた。
ハードウェアはインジケーターから、安全に取り出さなくてはならないのは承知していたが、そんな悠長なことはしていられなかった。
――間違いない、これが盗聴器だ。
萌乃先輩が朝日の手から奪い取って、霧先輩に怒りを向ける。
「霧ッ。お前が余計なことするからさ!」
霧先輩が泣きそうな顔で「すいません」と体を震わせる。
「汚ったねぇ真似しやがって、許さんさ!」
萌乃先輩が金切り声をあげたが、相変わらず声が可愛いので、あまり迫力がない。
「会話を録音したからって何なのさ。そんなのが、どんな証拠になるって言うさ。今のはただの雑談、作り話さ」
スマホから灯の声が届く。
<そうやって怒れば怒るほど、監視アプリ計画を認めていることになる。どうしてそれに気づかない>
「うるさい、うるさい」
萌乃先輩が顔を真っ赤にして、髪を振り乱す。これでは相手の思う壺だ。出しゃばるのもどうかと思ったが、朝日が割って入った。
「灯先輩。録音をどうするつもりなんですか?」
<さあ>
「公開したところで、生徒たちは信じるでしょうか」
灯が一瞬沈黙したので、朝日が畳み掛ける。
「こちらは全力で否定します。録音した音声も、ニセモノ、でっち上げだと主張します。白夜先輩ならやりかねない。そう思う生徒が多いのではないですか。特に中等部は」
<うやむやにしてもみ消そうというわけか>
灯の牽制など気にしない。朝日がさらにまくしたてる。
「だいたいクーデター選挙だって、白夜先輩が不正をしたという話が多くあります。そんな中で、白夜先輩の話を誰が信じるでしょうか。
公開したところで、大事にはならない。思っているような、大きなうねりは作れないのではないですか。
それに、ご存知ですか。生徒調査の結果では、夜祭先輩の支持率は、いまや白夜先輩を遥かに凌いでいます。もし今こちらがクーデターを仕掛ければ、白夜先輩がまた勝つという補償はありません」
<言っていることは概ね正しい。なるほど、夜祭派にもそこそこ頭の切れる人材はいるんだな。
でも、どうだろう。夜祭氏とて、かつての悪事がすべて精算されたわけではない。もし、クーデターを起こすというのならこちらも全身全霊で潰す。そちらも、絶対に勝てるというわけではあるまい>
今度は朝日が黙り込んだ。
<聞いているか、萌乃氏>
急に呼びかけられ、萌乃が「はぎゃ」と声にならない返事をする。
<ひとつ、提案がある>
朝日は続きの言葉に耳をそばだてたが、詳しい話は会ってからと言い、画面が真っ暗になって通話が切れた。
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