第8話

「淳子ー」


 部屋でうとうとしていた私を呼んだお母さんの声は、取り分け緊張感があったわけでもないけれど、有無を言わさず返事を所望する響きを持っていたので、返事の代わりに足を運ぶと、脱衣所で首を吊っているお姉ちゃんを引き摺り下ろすお母さんが服を血塗れにしながら「切るもん持って来て」と冷静な口調で指示を出す。


 私はお父さんが気まぐれで始めた日曜大工セットが入っている工具箱から小さいノコギリみたいなギザギザの入ったナイフを持って脱衣所に戻り、お姉ちゃんの首に巻き付いているロープの上の方をギッギュギッギュと切る。


 太いものでもなかったので、十数秒で切り落とすことに成功し、お姉ちゃんの体重を全身で受け止めたお母さんは仰向けに倒れて後頭部を浴室ドアのレールに打ち、「ぐぁいで」と不細工な声を上げた。


「なんでお母さん血出てんの? 喧嘩したの?」

「違うよ。これお姉ちゃんの」


 お荷物女に乗っかられながら指差した先には、トクトクと血を垂れ流すお姉ちゃんの手首があって、ああ、今回は割と真面目に死のうとしたんだなと感心しかけたけれど、よくよく考えるまでもなく、本当に死ぬ気があったら飛び降りとか何かそういうもっと分かり易い死に方を選ぶはずだから、やっぱり今回もこうして誰かに助けて欲しかったみたいな迷惑千万な下心があったに違いなくて、それに気付いた私は気絶しているっぽいお姉ちゃんの頭を一発叩き、ズルズルとお母さんから引き剥がす。


「はぁしんど。もうあと二三年だわ、こうやってフォローできんのも」


 首をコキコキ鳴らしながら「それ部屋まで運んどいて。あとお母さんがやるから」と、洗面台で血だらけの手を洗いだす。


 お母さん、いつまで娘の自殺未遂を助けてあげるんだろ。今更だけど、最大の親不幸だなこいつと思う。悪いことして補導されたり、誰かを傷付けて謝りに出向くことはどこの親でも一度位なら経験がありそうだけれど、娘に数十回の自殺現場を見せられた親は片手で数えられる位しかいないだろうし、数十回も親に命を助けられた娘の人数も片手で足りそうだ。


 何だか理解できない人達だけれど、残念なことに紛れもなく私の血を分けた母と姉で、二人はお互いをどういう目で見て、相手をどう思ってるんだろう。


 お母さんはお姉ちゃんに早く死んで欲しいとか思ってるのかな。

 お姉ちゃんはお母さんに早く死なせて欲しいとか思ってるのかな。


 愛憎って言葉があるみたいだけど、好きだからこそ生きていて欲しくないとか、好きだけど、死んで欲しいみたいな感情ってあると思う。


 そんなに嫌いじゃないけど殺意が湧くことって、考えられないことでもないし、同じ空気を吸っていたくないとか、相手の存在を許せなくなる瞬間って、誰しもあるんじゃないかな。


 だったら、お母さんとお姉ちゃんが、お互いに死を望み合っていてもなんの不思議もないし、むしろこれだけ変な家庭環境なんだから、特にお母さんはお姉ちゃんに早く死ねってほんとは言いたい位なんじゃないかな。


 私の勝手な想像だけれど。

 でもそんなに的を外してないんじゃないかな。


 すやすやと寝息を立てるお姉ちゃんの寝顔は安らかで、このまま殺してあげたほうが本人にとっても幸せなんじゃないだろうかと思わせる程無垢で可愛い。


「ああ、ありがと。もういいよ、あとやっとくから」


 包帯と消毒液を手に持ったお母さんは手際よくお姉ちゃんの手首に治療を施して、私が退散するまでの僅か一分の間にお姉ちゃんの手はグローブを嵌める前のボクサーみたいな感じになって、早くも血が滲んでいる真っ白な包帯をもう一巡させようか逡巡していたお母さんは、結局それ以上は巻かずに部屋を出ていく。


 まだ若いと思っていたお母さんは何だか少し小さくなったように見えて、でもそれは私の身長が伸びただけなんじゃないかっていうのもあって、あまり気にせず、私は私の仕事を終わらせる為に自室に戻った。

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