第2話
「ただいまー」
お姉ちゃんはお風呂に入っているみたいで、お母さんが「手、洗いたいなら流しで洗っちゃいなさい」と、揚げたてのコロッケを皿に並べながらキッチンの流し台を指差した。
「お風呂、お姉ちゃん?」
「そう」
「長いの?」
「二時間くらい」
「またフラれちゃったんだね」
「そうみたいね」
フラれてから三日間はお風呂に立て籠る癖を持っているお姉ちゃんは、精神的にとても弱くて、お風呂に入っている間は大体手首を切っている。
初めて見た時はビックリしたけど、お母さんは「本当に死にたいならあんなことはしないから放っておいて大丈夫」と言うので、私も放っておくことにした。
でも、お姉ちゃんが出た後に入ると、血の生臭い臭いが充満していて気持ち悪くなるので、死んでもいいからあの行為だけは正直止めて欲しい。吐き気がしてしまうから。
「淳子、お婆ちゃんにお線香あげた?」
「あ、まだ」
トテトテと仏壇の前に行き正座して、灰だらけの器に線香を差す。
「お婆ちゃんただいま。今日は特に面白いことはなかったよ。じゃあね」
トテトテと、再びキッチンへ戻る。
お婆ちゃんは去年死んでしまった。仕事が上手くいかなくて物に八つ当たりしているお父さんをお婆ちゃんが注意して、それでお父さんがますます怒っちゃって、お婆ちゃんに灰皿をぶつけたら、お婆ちゃんは無言で部屋を出てって、暫くして帰ってきたと思ったら、出刃包丁でお父さんの背中を何回も刺した。でもお父さんもやっぱりそこは大人の男の人なので、腕力も強いからすぐに包丁を取り上げて、その包丁でお婆ちゃんの顔を何度か刺して、お婆ちゃんはバッタン! と大きな音を立てて倒れて、これは大変なことになったねとお母さんに言うと、お母さんはそんなこと言ってる場合じゃないでしょ、こんな大変なことになってるのにと私を窘めて、救急車を呼ぼうとしたけれど、うっかり屋なので 警察を呼んでしまい、駆け付けた警察官は慌てて救急車を呼んでくれた。まあ警察が先でも間違いではないのかもだけど。
お婆ちゃんは即死だったみたいだけど、お父さんはなんとか一命を取り留めたとかで、今は入院中。正当防衛だってうわ言をずっと言ってたけど、お姉ちゃん曰く、治ったら逮捕されちゃうよお父さんとのことだ。まぁ仕方ないか。お婆ちゃん殺しちゃったんだもんね。私もあんまりお婆ちゃんが好きじゃなかったからいてもいなくてもどっちでもいいんだけど、それでも親殺しは昔だったら重罪で即死刑とかだったみたいだし、もしも裁判長が古臭い昔堅気の人だったらお父さんも死刑にされちゃうんだろうなと思うと、今の内に遺言を聞きに行くべきなのかなとも思う。
「今日のコロッケ、スーパーバリューの総菜コーナーで安かったやつ?」
「そう、よく気付いたね。今日はお肉屋さん閉まってたからスーパーでいいやと思って行ったらちょうど半額だったから買ってきた。美味しい?」
「普通。あ、お姉ちゃん、ただいま」
「…………おかえり」
二時間もお風呂に入っていたのに、顔は真っ青だ。普通は長風呂すると血行が良くなって真っ赤になるのに、こんなに青白いということは――
「お姉ちゃん、また切ったでしょ。換気扇回してくれた? 臭いから嫌なんだよね」
「ああ、忘れてた……」
「もー!」
バタバタとお風呂場に行き、洗面台横のボタンを押すと、お風呂場からコーっと音が聞こえる。これでご飯を食べている間に臭いは外に逃げてくれるだろう。私は計算高い女なのだ。効率の良さでは右に出る者はいないのだ。要領はあまりよくないのだけど……。
食卓に戻ると、お姉ちゃんはサラダを無理矢理口に押し込んでいた。
「お姉ちゃん、洗面所まで臭いきてたよ。もー、これからは換気扇回しながら切ってよねー」
「おえっ……ごめん……。――ごぇ」
「……なんで無理して食べてんの?」
私の質問を無視したお姉ちゃんは涙目で口を震わし、お母さんに助けを求める。
「ねぇ……もういいでしょ……? 許して……」
「だーめ。あんた最近ダイエットとか言って、全然ご飯食べてなかったじゃない。だからサラダだけでいいから食べなさい」
「でも……」
「だいたい、そのなんとか君とも別れたんでしょ?」
「っていうか付き合ってなかったんじゃないの?」
無視されたお返しにお姉ちゃんがひた隠していた事実を暴露すると、お母さんはビックリしてお姉ちゃんに追い打ちをかけるみたいなことを言う。
「あら、あんた付き合ってたんじゃなかったの? いっつもデートだなんだって……」
「見栄張ってたんだよね、お姉ちゃん?」
「うーうーうー」
唸り始めた。壊れちゃったかな?
「うるさーいっ!」
バチンと頬っぺたを叩かれてしまった。食べたくないサラダを強要されたばっかりに、手汗をたんまり掻いていたお姉ちゃんの掌はしっとりと湿っていて、そのせいでダメージは倍増したんだと思う。
「いったーい! 酷いよ、バカ!」
「あんたが言うから悪いんじゃん! バカ! バカっ!」
私は一回しか言わないであげた"バカ"というワードを二回も続けて言うなんて、なんて大人気がないんだろうと、もう一度、何か別の秘密を暴露してやろうかと思ったけど、お母さんの仲裁が入ってしまったので、この勝負はお預けになってしまった。
「喧嘩しないの。どっちもバカなんだから、その手の言葉で相手を罵るのはやめなさい」
「――お母さんはバカじゃないの?」
「お母さんはバカじゃないわよ。バカなのはお父さんの遺伝だから」
ああ、なるほど。確かにお父さんはバカっぽかったな。仕事が大変なのは分かるけど、家に帰ってきて物に当たり散らすのは少し格好悪すぎるし、なにより勢いでお婆ちゃんを殺しちゃったのもなんかバカっぽい。
「じゃあ私達はバカでもしかたないね、お姉ちゃん」
「……釈然としないけど、お父さんのことを言われると納得するしかない気がする」
その家族公認の低能パパは、近々お国から死刑を宣告されてしまうかもしれないんだった。もしかしたら気付いてないかもしれないので、お母さんに教えてあげる。
「死刑でも懲役刑でも変わらないわよ。どうせ保険金だってもらえないし」
「えっ! お父さん生命保険入ってないの?!」
「癌保険だけかな。ほら、お父さんの家系って癌持ち多いから」
「ええ~。なんだ~、期待してたのになぁ」
「寧ろ借金を遺してくれるけどね」
「はぁ、カイショーないなぁ、お父さんは」
私とお母さんがお父さんの駄目っぷりさで盛り上がっている隣で、お姉ちゃんは一生懸命細く切られたキュウリを咀嚼していた。やっぱり真面目なんだな、お姉ちゃんって。元々精神的に不安定だから、嫌われないために相手を尊重するあまり、すぐに傾倒されちゃって、依存しちゃって、その上で言われたことはきちんと最後までやろうとするから、裏切られ易いし、傷付き易い。まぁ傷をつけてるのは自分でなんだけどね。
「ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんはお父さんのこと好き? 死んだら哀しい?」
麦茶をコップに注いでキュウリを喉に押し込んだお姉ちゃんは、「別に。好きでも嫌いでもないけど、遺産どころか借金を遺して逝くんでしょ? 癌の遺伝子といい、余計なモノばっかり受け継がせていくのは流石にどうかとは思う」と言う。
「あはは、確かに。でも大丈夫だよ、お姉ちゃんは」
「なんで?」
「だって、癌が発病する前に絶対自殺するから。そんな先のことは心配しなくても大丈夫!」
目を丸くするお姉ちゃんを見てお母さんは声を上げて笑う。
「あっはっは! 確かにそうね。お姉ちゃんは癌になる前に死んじゃってそう。でも癌って若くても発病するからね、小児癌とか聞いたことない? だから油断はできないのよ?」
「もう! 二人とも酷い!」
お姉ちゃんは怒った振りをしているけど、本当は自分が一番その可能性を信じているので、そっぽを向いたと思ったらその反動で顔をこっちに戻して、話題を変える。
「ねぇ、そう言えばさ、あんたはどうなの? 彼氏とか」
「……なんで? いないよ、そんなの」
判ってて訊いてるんだ。ほんとに意地が悪い。さっき私が付き合ってないことばらしちゃったからその仕返しでこんなことを言うんだ。
「へ~。あんたももう中学生なんだからさ、そろそろ色恋に興味持ってもいいんじゃないの? いつも遊んでるあの子……なんだっけ」
「朋美……」
「そうそう、朋美ちゃんとばっか遊んでないでさ、男の子とどっか行ったり――」
「振られてばっかのお姉ちゃんにそんなこと言われたくない!」
お箸を握り締めながら思わず立ちあがってしまった私は、なんだか凄く恥ずかしくなってしまい、顔を真っ赤にして、ぽかんと口を開けてこっちを見てるお姉ちゃんを睨み付ける。
「ちょっとあんたどうしたの。そんなに怒るようなこと言われてないでしょ。まあ確かにこんな振られてばっかの女に、一丁前にアドバイスされたら苛つくのも分からなくはないけど、でもお姉ちゃんだって悪気があって言ってるんじゃないってこと、あんただって分かるでしょ?」
「……分かるけど……お姉ちゃんには言われたくない」
「酷いよ、二人とも! 私だって振られたくて振られてるんじゃ――」
そう言って泣きだしてしまったお姉ちゃんを見ていると、なんだか悪いこと言っちゃったなと反省しなくもない。
「ごめんよ、お姉ちゃん。私が悪かったよ。許してくれるよね」
肩を叩いて背中を摩ってあげると、「うるさい、バカ」と悪態を吐くので、首の肉をギュッと抓ってやった。
「はぁ……でも、あんた達ももうそんな年齢になったのね。なんだか感慨深いわ~」
遠い目をしているお母さんは、この顔が一番美人だと自分でも分かっているので、遠い日を懐かしんでいるわけでもないのに、よくこの顔をする。
「あ~あ。私もあと十歳若かったら街コン、だっけ? あれに行って若い子食いまくったのになぁ」
「お母さん性欲強いもんね」
「グスッ……ぞのぜいよぐのぜいでわだじも……グズッ」
性格は私が大半を譲り受けたけれど、どうやら性欲はお姉ちゃんが大半を持っていってしまったようで、残念ながら私は未だ嘗てムラムラした経験は一度もない。
「まぁでもあれよ、子供産める時に産んどいたほうがいいわ、ほんとに。別におばさんになっても産めるけど、しんどいからねぇ」
お母さんは二十一でお姉ちゃんを産んで、その四年後に私を産んだ。今は晩婚化が進んでるみたいだし、二十代で二人の子持ちというのも多産家さんとして褒めそやされる存在なのかもしれない。
「あたしもまだ三十代だからね。もうひとり位なら産んでも良いけど――あんた達、まだ兄弟欲しい?」
「要らないよー、お姉ちゃんみたいに暗い子だったらやだし」
「ぐす……わだしも要らない。こんな性格悪い妹が増えたら死にたくなる」
バシン! と背中を叩くと「いい痛いっ」と椅子から転がり落ちておいおい泣き出すお姉ちゃんは放って、ハムカツを頬張りながら私は自分が子供を産む姿を想像する。
「……うげー、痛そう」
「超痛いよ。あ、これ死ぬわって思うからマジで」
「はぁ~よく生きてたねぇ、流石お母さん」
「まぁね。あたしは鍛えてるから大丈夫だったけど、
うえうえ言いながら慰められるどころか追い打ちをかけられて打ちひしがれているお姉ちゃんは少しだけ面白かったけれど、確かにお姉ちゃんなら出産中に痛さのあまり自殺しちゃいそうなので、そのシーンを想像すると面白くて、悔しいけどちょっとだけ笑ってしまう。
「あんたは未だちょっと早いかも知れないけど、まぁ耐えられるよ、あんたなら」
なに考えてんだか分かんないしねとよく分からないことを言ってふふふふ笑いを溢すお母さんはいつも早食いで、私が一膳を平らげるまでの数分間で、あれだけ喋りながら三杯目のご飯に手を付けている。
「子供産むのもパワーがいるし、育てるのもパワーがいんのよ。方や死にたがり、方や何だかよく分からんガキ二人だからね、普通の親の三倍は消耗するんだからね」
私は自分ではお母さん似だと思ってるんだけど、お母さんはあんまりそうは思ってくれていないみたいで、でも確かに言われてみると私もお母さんが何を考えているかなんて分からないからそれじゃあお母さんが私が何を考えているのか分からなくても不思議じゃないなと結論付いた頃にお姉ちゃんが食べ掛けのサラダが入った食器を持って立ち上がって「部屋で食べる」とリビングから姿を消す。
「捨てたらぶん殴るからね」
「捨てないようるさいな」
椅子から落ちた拍子に傷口が開いたのか、手首の包帯が赤く滲んでたけど、お姉ちゃんはまだ若いから明日にはきっと殆ど痛みも感じない位には回復しているはずだ。
「さて、片付けよっかな」
そうこうしている間にご飯茶碗を空にしたお母さんは食器を流しに持っていき出すので、私も自分で食べたものくらいは運ぶ。
「お母さん明日も仕事?」
「そうだよ。明日も明後日も明々後日も弥明後日も六明後日も仕事だよ」
「大変だね」
「ふふ、思ってないでしょ」
私の本音は言葉にしてもなかなか伝わらないようで、一親等であるお母さんにすらこの調子だったら、お姉ちゃんにも朋美にも他のみんなにだって伝わらなくて当然なのかもしれない。
「あんた達食わせてかなきゃいけないからね。さっさと大きくなって出てって欲しいよ」
「うーん、善処するよ」
「是非そうして頂戴」
テーブルを拭く布巾を絞るお母さんの腕は結構筋肉質で、筋がハッキリ見える程の締まり具合だ。
「でも、お姉ちゃんは割と早く出ていくかもね」
「? なんで?」
「灰になって空に飛んでっちゃうから」
「……なるほど」
二十歳まで未遂が続くのか、それとも念願の死を手に入れられるのか、それはお姉ちゃん次第だけど、小心者のお姉ちゃんはきっと表皮を切って血を流すことが関の山だろうし、私もお母さんも正直心配してないのだけれど、万が一ってこともあるし、生命保険は入っておいた方がいいと思う。
「子供を生命保険に入れたら世間から袋叩きだよ、あたしは」
子供の命よりも世間体を優先するお母さんが、私は結構好きだ。
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