十四

 目を開けた。私は寝間着の恰好ではなく普段着だった。布団の上ではなく、畳の上で横になっていた。そうだった、自分の部屋に戻って、わっと泣いて、そのまま眠ってしまったのだ。


 ふすまの方を見るとやはり少し開いていた。私は立ち上がり、ふすまに歩み寄ろうとした。


 しかし、その時、左胸がえぐられるような強い痛みが走った。


「うっ…」


 私は、その場に倒れ込み、ううだとかああだとか、呻き声しか出せなくなった。


 呼吸をするたびに、じぐり、と胸が痛む。胸を押さえる右手に違和感を覚え、握りしめていた右手を震えながら開いた。


 私の手は、赤黒く染まっていた。


 これは、私の血だろうか。


 目を凝らして畳を見ると、赤黒い液体が散らばっている。


 私は横になったまま、必死に酸素を肺に取り入れることしか出来なかった。 


 苦しい、苦しい、苦しい。その言葉が乾いた口の中からあふれ出す。


 すると、ぽたり、とこめかみにまた液体が落ちた。どろり、とした感触はなく、さらりと私の鼻に向かって流れていく。私は、胸の痛みに耐えながらも、液体が流れ込んだ方をちらりと見た。


 そこには、いつもの殿方がいた。泣いていた。声を殺して、静かに嗚咽を抑えながら、ぼろぼろと涙を流していた。


 その手には、小さなジャックナイフが、どろりとした液体を垂らしながらも光っていた。


 この状況が理解できない。彼は、私を刺したのか?でも、どうして彼は泣いている?


 私は力を振り絞って、体を倒し、仰向けになった。


 彼の顔が鮮明に見えた。彼は静かに、盛大に泣いている。


 私は赤黒く染まった右手を上げ、彼の頬を撫でた。彼の頬に、べたりと赤黒い液体が付く。


「どうして…、泣いて、いるのですか…」


 声が震えながらも、必死に彼に問いかけた。彼は両手で零れ続ける涙を拭いながら、静かに泣いている。赤黒く染まった小さなジャックナイフが大きく震えている。


「一緒に、死にますか?」


 人間は、瀕死の状態になるとちゃんとした、人間らしい思考ができなくなるらしい。


「一緒に、死んでください」


 私は彼に、そう言っていた。


「あなたと一緒がいいんです。私、あなたのことが好きですから」


 彼は少し泣き止んだように見えた。


 彼は、いつものように頷いてくれると思っていた。そう信じていた。


しかし、彼はゆっくり首を振った。


「私のことが、嫌い、ですか…?」


必死に声を出す。すると、彼はまた首を振った。今度は、ゆっくりではなく、しっかり首を振った。


「泣かないで」


 そっと、彼の涙を拭う。彼には、笑顔が似合う。


 私も、彼につられて目に涙が溜まってきた。泣いている場合ではない気がする。もう二度と、彼に出会えない気がした。


視界がどんどん輪郭を無くし、ぼやけていく。

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