十三

 泣いてしまったことがばれないようにすぐ起きて顔を洗った。


 私の日常は退屈で寂しいものになった。本を読もうにも手が付かず、ただぼんやりと空を眺めるしかなかった。散歩にでも行こうと廊下に出たが、また女中に止められた。


 すると、その時お母さまが通りかかった。お母さまに事情を話すと「あら、そのくらいいいじゃない。いってらっしゃい」と許可が下りた。


 私は近所の商店街へと向かった。まだ昼間でもないのに賑わっていた。


 私は雑貨屋に入った。人形に鏡、口紅や櫛。美しいものがたくさん売っていた。


 私は一つ櫛を手に取った。繊細な模様が描かれており、とても綺麗だった。


「気にいったかい?」


 話しかけてきたのは店番のおばあさんだった。


「ええ、とても」


 私はちらちら櫛を見ながら答えた。


「恋でもしている顔だね」


 おばあさんは微笑んで言った。


「恋…?」


 その言葉を聞いてどきりとした。でも私は恋というものを詳しく知らない。


「恋というものは、一体何でしょう」


 おばあさんは、微笑んでこちらを見た。


「その人の顔を何度も思い浮かべては微笑むことだね」


 おばあさんはゆっくり答えた。


 私はこの感情を、恋と呼んでもいいのだ。



 手にしていた櫛を買い、店を出た。商店街の賑わいは増している。


 私は駄菓子屋の前で足を止めた。もう亡くなってしまったおばあさまが内緒でよく駄菓子をくれたことをふと思い出した。


 お店には懐かしいお菓子がたくさん並んでいた。店にいる小さな子供たちと一緒にしゃがんでお菓子を選んだ。


 すると聞き覚えのある声が耳に入ってきた。


「やはり令嬢だけあって、世間知らずなんですよ。何も知らないと言うから、こちらが説明してあげていたのに、ええ」


 その大きな声は店内にも聞こえてきた。店の外を見ると、橋本様とあと二人、ご友人らしき人が通りかかるのを見た。


 私は手にしていたお菓子を棚に戻し、三人のあとをついて行くことにした。



 一番端にいるガラの悪そうな方が口を開いた。


「でも政治家か医者の娘なんだろ?いいじゃねえか、のんびり暮らせるぜ」


「そこだけが取り柄ですよ」


 かん、と頭を叩かれた感覚に陥った。きっと私の話をしている。


「まあ静かな人でしたから、私が好き勝手にしても何も言ってこないでしょう」


 三人の笑い声が商店街中に響いた。


 私はただ立ち尽くしていた。頭が熱くなっていく。私は急いで家に帰ることにした。


 家に着き、力いっぱい玄関の扉を開け、お母さまの部屋へ向かった。


「失礼します、お母さま」


 扉を開けると、お母さまは編み物をしていた。


「さっき橋本様をお見かけしたの。ご友人も二人いらっしゃって話をなさっていたのだけれど、この結婚がお父さまのお金目当てだと言うの」


「盗み聞きは下品よ」


「でもね、お母さま。お金目当てなのよ。私のことなんてちっともお好きじゃないのに、結婚なんて、そんなの嫌よ」


「結婚ってそんなものよ」


 お母様はそよ風にかき消されてしまいそうなほど、か細い声で言った。


「お母さまはお父様のことがお好きでご結婚なさったんでしょう?」


 お母さまはこちらをゆっくり見た。お顔には笑みを浮かべていらっしゃった。

「さあ、どうかしらね」


 そう言ったあと、目線は編み物に戻った。


「まずはね、貴方は結婚というものに夢を見すぎなのよ。学校でこんなことも教えないのかしら」


「そんな、あんまりよ」


 私は部屋を飛び出した。 

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