十一

 今夜は虫が鳴かない静かな夜だった。目が覚めると、私はすぐにふすまの方を見た。また中途半端に開いていた。私は立ち上がり、ふすまに歩み寄った。


 庭に人影が見えた。その正体はあの殿方だった。


「こんばんは」


 私は少し大きな声で言った。彼はこちらに気づき、一度お辞儀をした。


 今夜も月が出ているのに、彼は庭に出て、俯いていた。


 私は庭に置いてあった草履に履き替え、彼の隣へ行った。彼は私より頭一つ背が高く、凛としていた。


 私も彼の視線の先を見た。一輪の白百合がぽつりと咲いている。


「こんなところに百合が。気が付きせんでした」


 彼は私を見ていた。


「教えてくれて、ありがとうございます」


 そう言うと、彼は静かに微笑んだ。


 すると、彼は突然しゃがみこんだと思ったら、すぐに立ち上がり私の方を見た。

 左手には一輪の白百合が握られていた。さっきの白百合だった。花を持つ手をそっと私の方へ近づけた。


「私にくれるのですか」


 彼はゆっくり頷いた。私は両手で優しく、零れ落ちないように花を受け取った。


「ありがとうございます」


 彼は微笑んでいた。


 彼は、月を眺めた。私も、その視線を追った。


「貴方と一緒にいられる時間が長くなっている気がします。そう思いませんか?」


 私も微笑んでそう言った。彼は微笑んだままこちらを見ていた。


「貴方と一緒にいると、ありのままの自分でいられる気がします。落ち着きます」


 そう言うと、彼は私の手を優しく握った。私も握り返した。


 私の日常は少しずつ変わり始め、どこかへ向って行く様子に私はもう疲れていた。このままでいたい。彼といるこの世界で生きたい。そう強く思うようになっていた。

 でも彼は私を置いてどこかへいってしまうような気もした。そう思うと少し怖くなった。


「貴方はいつまでもここにいてくださる?」


 そう聞くと、彼はゆっくり頷いた。


 段々と月の光が強くなってくる。ああ、きっと夢から覚めてしまうのだ。


「明日も会えるかしら」


 そう聞いた時には視界の半分が光に包まれていた。


 彼の輪郭が微かに動いた気がした。



 何回か瞬きをすると、そこは見慣れた天井だった。


 少し寂しくなった、寂しさを紛らわすために私は急いで朝の支度を行った。



 着実に進んでいく結婚話とは裏腹に、私はあの殿方を忘れられないでいた。


 今朝、朝食をとっている時にお母さまから「退学手続きが済んだそうよ」と言われた。私はもうこの状況から逃げられなくなっていた。


 朝食を終えるとすぐに布団に潜り込んだ。もう一度眠れば彼に会えると信じて。


 でも夢に出てきたのは懐かしい友人や、前に観た活動写真の俳優で訳の分からない不思議な夢だった。彼は出てこなかった。


 浅い眠りを繰り返していると、あっという間に時間が経った。

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