九
休日の昼間、勉強をしていると分からない問題があったので、お父様の書斎へ本を借りに行くことにした。
絨毯が轢かれた廊下を歩いていると話し声が聞こえてきた。
「式はいつにしましょう」
「私どもは準備が出来次第いつでも構いませんよ」
男性二人の話し声だった。一人はお父さまの声だった。もう一人は橋本様のお父様だろうか。
一歩踏み出すのに一瞬止まってしまったが私はドアをノックした。
「失礼します」
ドアを開けるとお父様ともう一人、お父様と同じご年齢か上くらいの方がいらっしゃった。
「私の娘でございます」
「これはこれは、どうも」
「橋本君の御父上だ」
橋本様のお父様は私の方に体を向け、会釈なさった。
「こんにちは」
私も会釈し返した。
「何の用だね」
「貸していただきたいご本があります」
「そうか、取っていきなさい」
二人の視線を浴びながら三冊ほど本を貸していただいた。
「失礼しました」
静かにドアを閉め、来た道を戻る。
自室に戻り、その場に座り込んだ。私の心は平安ではなかった。
このままだと本当に結婚することになってしまう。
私がこの家を出ても、彼は夢に出てきてくれるだろうか。もう二度と会えないのだろうか。
そして、私は橋本様との未来を想像することが出来なかった。貸していただいた本をそのままにして部屋を飛び出し、お母さまの部屋に向かった。
「お母さま、いらっしゃる?」
焦ってしまい、つい早口になってしまった。「ええ」とお母さまは静かにお返事なさった。
「失礼します」
力いっぱいドアを開け、座っていたお母様のお膝へ飛び込んだ。
「結婚を断って欲しいの。お父さまがもう話を進めていらっしゃる」
お母さまは平常でいらっしゃって、私の肩にぽんと手を置いた。
「結婚前は誰だって不安になるものよ」
「不安なんかじゃないの。嫌なんです」
「それはまたどうして」
言葉に詰まった。私の頭がもっと上等なら良かったと改めて悔やんだ。こういう時にぱっと作り話ができない。頭の中をいろんなものが邪魔をしてくる。
お母さまなら同じ女として、同じような縁談をご経験された身として分かってくれるかもしれない。
「忘れられない人がいるんです」
「まあ、それは誰なんだい」
「名前も分からないの。でも素敵な殿方で、いつも私の夢に現れるのです」
「夢?」
「はい。いつも閉め切っているはずのふすまを少し開けて縁側に腰掛け、月を眺めていらっしゃる。私を呼んでいるのか、おっちょこちょいで開けっ放しにしているのか…」
あの少し開けられたふすまを思い出すと何だか可愛らしく思えてきて、笑みが零れてくる。
顔をあげてお母さまを見ると、お母さまのお顔は盛大に歪んでいた。すっと私を置いて立ち上がると「あの子が気違いになった」と叫びながら走って行かれた。
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