2日目 奇跡
昨日、母に迎えに来てもらい次の日は大事を取ってお休みをすることになった。滅多に具合など悪くならないから心配なのだと母は言う。
それに対して、私は何も答えられなかった。
遅いよ、ずっと前から具合が悪かった。そんなことを言う気力なんて、私にはもう残されていなかった。
けれど辛うじて言わなければならない言葉は絞り出せた。
「もう迷惑をかけないよ、お母さん」
母は仕事で出て行った。多分私の言葉の意味など分かっていないまま。
私がいたら、迷惑をかけるだけ。いても何にも応えられない。失望させ、悲しませるだけ。母にとって、子供は兄達だけでいい。私はいなかったことにしてほしい。
そんな願いを込めて贈った言葉に、何も疑問を抱くことなんてない。
ベッドで布団に被り天井を見る。見慣れているそれは今日でお別れ。全てのものに対してさようなら。
ここで眠るのも、生活するのも、終わり。
何もかもが最期と思うと、名残惜しくなってしまう気がする。
けれど嬉しいこともある。
苦しみから悲しみから、気持ち悪さから吐き気から、めまいから痺れから、考えから夢から、学校から家族から、母から兄たちから、社会から一人から、
――解放される。
そう思えば、なんて素敵なことなのだろう。
私を襲う眠気に逆らわず、瞼を閉じた。もし、ここで悪夢を見てしまっても、これで終わりと思えば耐えられるような気がした。
『あんた、その死んだような顔止めといた方がいいよ。そんなんだからあんなことされるんだよ』
美少女の声が頭を支配する。昨日あの言葉を言われてからずっと繰り返される言葉。
そう、全て私が悪いの。私がいけないの。情けなくて、滑稽で。兄達を超える事もできず、母の期待に応えられない。酷いことされても仕方がないような人間なのだ。仕方がないのだ。私が、全て、全て――悪いのだ。誰も悪くない。みんなをそんな風にしているのは、私なのだ。
だから。
私が消えれば元通り。
瞼を開けると、暗い部屋だった。締め切られたカーテンを少し開けると茜色が差し込み随分寝てしまったことが分かる。ベッドの脇にあるピンク色の時計を見ると長い針は4を差していた。
重い身体を引きずり、ベッドから抜け出し着替える。そして最後に部屋を見渡してから家を出た。
行くあてもなく、歩きいつも通り電車に乗った。意味もなく窓越しから過ぎゆく景色を見つめ続ける。
こんなに空しいものだったろうか。
日々は、こんなに色がなかったのか。
繰り返される景色を見て、私はいつも考えていた。この世界に広がる景色は私がいなくなっても変わることがないのだろうか、と。
私一人、いなくなっても何もなかったように繰り返されていく景色は、世界は、なんて酷いのか。
けれどそうであってほしいとも思う。だって、誰かがいなくなっても変化がない世界ならば、人だってそうだ。私を忘れ、変わらない毎日を送る。
お母さんも兄さんたちも私を忘れ日々を送る。それでいい、そうであってほしい。
私にももう無理だ。世界は色鮮やかだった頃に戻れない。この日々を生きていくことが苦しすぎて、辛すぎて。
人が怖い。兄さんたちが怖い。お母さんが怖い。
目が怖い。考えが怖い。思いが怖い。
何もかもが怖い。
自らを抱きしめ色が抜け落ちた景色を見つめる。
もう何も映らない、私を映さないで。もう何も見ない、見たくない。もう何も感じない、感じたくない。
考えたくない、思いたくない、いたくない、いたくない、いたくない。――この世界に存在したくない。
消えたい、死にたい、死にたい、消えたい。
橋を渡る電車。見えた川沿いの草原。
「――・・・」
大きく息を飲む。
蒼みがかった短い髪、目より長い前髪の隙間から見える山吹色の瞳。
面倒そうな低い声。
表情を持たない顔。
私の言葉に肯定してくれた言葉。
私を見てくれた目。
私を止めようとしてくれた手。
私にぬくもりを与えてくれた人。
私の、心にいてくれた存在。
私をここまで救ってくれた。
私と、私と出会ってくれた
―――奇跡。
駅に着いて私は電車を飛び出した。
走って駅を出て、いつもの場所へ向かう。誰かにぶつかっても、前へ前へ。
子供たちの声が聞こえる。他にも声が聞こえる。風の音が聞こえる。どれも私を苦しめる音。それでも、今は気にならなかった。
私は彼だけには忘れてほしくない。
たとえ、この世界が、人が、私が消えても変わらなくても、忘れてしまってもいいから。
お母さんにも兄さんたちにも、忘れられていいから。
「・・・っ」
あの人だけには、私のたった一つの奇跡にだけは、忘れてほしくない。消えてほしくない。私がいたと覚えてほしい、私がここにいても良かったと、たった数分だけでも私がここに、この世にいても良かったと、肯定してほしい。認めてほしい。
私は、ここにいてもよかったですか?私が生まれた意味はありましたか。今までの私に意味はありましたか。情けなくて滑稽で、何にも応えられなくて失望させることしかできなかった私でも、部屋に籠って夢に逃げて、居場所がどこにもなくても、気持ち悪くて吐き気がしてめまいがして痺れるような身体を持っている私でも、あなたに何か意味のある存在で在れましたか。
私が生きていても良かったって思いますか。
頬を濡らす涙を止めずに、走り続ける。息が切れても肺が悲鳴を上げて痛みだしても、私は走ることを止めなかった。立ち止れば、あの人に会えないような気がして。肯定されないような気がして、認められないような気がして。
転びそうになっても、視界が歪んでも、あなたに会いたいです。会いたいです。
会いたいんです。
あの人と出会った場所の近くまで来て、足が鉛のように重く上手く走れない。いや、どこからか走っているようで走っていなかった。いつの間にか歩くよりも遅い速度で進んでいた。それでも視線は前だけを見て、逸らすことはしなかった。
色褪せない世界でも、空しい日々でも、彼を思えば意味のあるものになっていく。そんな世界や日々から目を逸らすことはしない。
ぐりっ
嫌な音。素直に思ったと同時に身体が傾く。そして走る足首からの痛み。身体が崩れ背中からどこかへ落ちていく。いや、堕ちていくのか。
限界だった。精神も身体も、もう耐えられなかったのだろう。
力なく放り出される両手の先に空が見える。本来の色ではない白が見え、私はじっと見つめていた。これから暗い世界へ行くのなら、丁度いいのかもしれない。
ありがとう。
あの人に向けて
ありがとう。
あの人と出会わせてくれて。
ありがとう。
あの人を思い出させてくれて。
ありがとう。
最期に、あの人への想いに気付けて、良かった。
良かった、よ。
―――暗闇が私を覆う。
すーはー。間抜けな溜息が耳元で聞こえ、鼻に香る煙草の匂い。安心したような、そんな溜息に私は瞼を開く。目の前には、草原。上へ視線をずらすと茜色の空。
ここは、どこだろう。
そんな疑問。そして気付く。左手とお腹にあるぬくもりに。左手には誰かの手が握られ。目線を下げれば、誰かの腕が巻き付いていた。
「ここ、転びやすい場所なんだな」
小さく呟かれた言葉に乗せられた声は、面倒そうな、だるそうな、低い。耳にそれが入り脳を浸透していく。安心感に涙が零れる。
ひょい、と私の顔を覗きこむその瞳は山吹色。蒼みがかった前髪の隙間から見える山吹色。相変わらず、顔に表情はない。
あぁ。あなたなんですね。
「大丈夫?」
ずっと、会いたかったです。
「また会えてよかった」
「・・・」
「もう会えないかと思った」
身体を離すとぬくもりも離れる。足首の痛みに顔を顰めると私を支えながら座らせてくれた。そして自らも座り「足首やられたか」と聞いてくる。
「・・・あの時のあなたと一緒ですね。」
「・・・ん、あぁ。そうだな」
頷きながら言うと、彼は頬を人差し指で掻いて頷く。なんだかその姿が照れているように見えて笑う。すると、彼はじっと私を感情は分からないけどじっと見つめた。その視線に耐え切れず俯く。けれど笑みは浮かべたままだ。
ごそごそと隣で音がして視線を向けると、彼がポケットからハンカチを取り出した。男性が持つには似合わない真っ白にイルカの刺繍。
「これ」
短い言葉と共に差し出された私のハンカチ。私と彼を繋いでくれた、たった一枚のハンカチ。代わりなんてないハンカチ。
そっと受け取り抱きしめた。その様子をどんな思いで見つめているかは分からないけれど、彼はじっと見ていた。
「ありがとう、ございます」
感謝を述べれば「違う」と首を振る。首を傾げれば、また「違う」と言う。
「それはこっちの台詞。盗るのはだめだ。」
「え」
「ありがとう、ハンカチ貸してくれて。」
「!!??」
「俺を助けてくれてありがとう」
涙が零れる。涙が頬を伝い落ちていく。
彼を見つめたまま、私は涙を流す。彼は何を思ったか、私の左手を両手で取り、見つめてきた。
「ありがとう。だから、そんな風に泣かないでほしい」
そう言われても、と。私は涙を止められない。彼の両手に包み込まれた左手が暖かい。ずっと救われてきたぬくもりが、ずっと与えられているようで嬉しかった。
「わた、し」
困らせていると思う。表情が変わらないから、どうか分からないけれど。何か言わなくちゃと思っても、言葉にできない。
感謝を述べられて泣き出す子にどうすればいいのか分からないと普通は思う。それでも、変わらず彼は私を見つめる。まるで、言葉の続きを待っているようで。
「ずっと、あなたに会いたく、て」
苦しくて悲しい日々の中で、ここまで来られたのはあなたと出会ったから。もし、あそこで出会わなかったら私はどうなっていたのだろうかと考えたくもない。
「あんな一瞬、みたいな時間でも。あんな、あんな一瞬みたいな肯定でも、わたし」
私の言った言葉に肯定した短い言葉。
「うれしかった」
絞り出した言葉の後、沈黙。涙を抑えるように右手で拭う。すると、髪に触れられる大きな手。そして優しく撫でる行動に顔を上げる。
「そっか」
困っているだろうに、どうすればいいか分からないだろうに、あんな日の会話なんて忘れているだろうに、肯定する低い声。
嬉しくて、瞼を閉じる。
「よく」
彼が言う。
「頑張った」
何をどうなんて今は関係ない。どうしてそんな言葉が彼から出たのか分からない。きっと、他の人だったら何を分かった様なことを言うんだ、とか。何を知っているの、とか思うかもしれない。それでも私にとって充分だった。
だって。
その言葉をずっと、私は待っていたのだ。
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