3日目 ハンカチ
数学の授業が終わり、次は科学。実験室への移動で、教室の鍵を閉める委員長よりも早くに出なくてはならないので、すぐに教科書とノートに筆記用具を用意していつでも出られるようにする。待つのは、何かを盗まれないようにするため。委員長以外のみんながいなくなったら私も出る。教室を出る際、眼鏡をかけた真面目そうな委員長は私を見ないように俯いていた。
昨日、あの子が言ったことは間違いではないのだろう。私も目線を合わせないように俯いて横を通った。廊下の隅を歩き、歩行者の邪魔にならないようにする。俯いたまま歩くのはここへ入学してすぐに癖となってしまった。だから、廊下にポトリと落ちたハンカチにすぐに気付く。
ハッと顔を上げると、とても綺麗な銀色の髪を持った女の子が前を歩いていた。
肩につくかつかないか程の髪は艶があり、小さな背中でなんとなく上品な歩き方に見えた。多分、ハンカチを落としたのは彼女だろう。
廊下に落ちたハンカチを拾うと、白く端に一匹の小さなイルカが刺繍された可愛らしいハンカチだった。
そこで、ふと。自分も同じようなハンカチを持っていた気がした。いや、持っていた。ポケットに入っているハンカチを取り出せば、白いハンカチの端に熊の刺繍が施されていた。同じシリーズである。しかし、私はイルカに見覚えがあった。絶対に持っているはずなのだ。
どこで。
「あ」
思い出した。そう、あの大学生に渡したハンカチはこのハンカチだった。
お気に入りで、よく持っていた。あの時は急いでいたし、どんなハンカチなのかも分からなかった。そうか、私はお気に入りを彼に渡したのか。
『これ、洗って返す』
彼の声が突然蘇り、頭で声が響く。
返すって、どうやって返すのだろうか。またあそこに行けば、会えるのだろうか。私に、ハンカチを返しに来てくれるのだろうか。
けれど、私はそれを断った。それに、習慣であの場所へ行くのに今まで会ったことはない。
あの日だけが、彼と会えた奇跡。
「――あ」
考え込んでいたら、前にいたはずの銀髪の女の子が廊下を曲がったところが見えた。見失わないように、自分のハンカチをポケットに入れ早足で彼女の後を追った。
曲がった先に続く廊下をスタスタ歩く銀髪の女の子をすぐに発見し、追いつく為に足を速める。
「あの」
歩きながら一定の距離で声を掛ける。けれど、彼女は気付かない。
「あのっ、すみません」
彼女の足は意外と早く、スタスタ、前へ、前へ向かう。それがどうしようもなく不安になり――
「あの、待ってくださいっ!」
そんなに大きくはないと思う。色んな人と比べれば。けれど、私にとっては今まで出したことがないくらい大きな声だった。
自分でも驚いていると、女の子は立ち止りこちらを振り向いた。
水色の瞳に、無表情。いや、どこか彼女は怒っているようにも見える。そんな表情をしていても、彼女は美少女だった。その言葉が当てはまる、そんな女の子だった。
私は彼女の目の前まで来て、見惚れてしまった。
「なに」
突き刺さるような冷たい声音に驚き言葉が詰まる。「あ、え」とどうすればいいか分からなくなってしまった私の視線がハンカチを持っている手に気付き、すっと差し出す。
「これ、あなたの、ハンカチ?お、落ちてて」
何とか言葉を繋げるが、彼女は整った眉をピクリと動かしハンカチに視線を落とす。そして目を細め私を見た。
「そうだけど」
「あ、その、良かった。すみません」
視線に耐えられず、肯定の言葉に答えたあとに謝ってしまった。
「なんで謝るわけ?悪いことでもしたの?」
「いいえ、そんな。ご、ごめんなさい」
「また謝った。意味わかんない」
睨まれ、怖くなって謝る。それを気に入らなかったらしく、不愉快そうに歪む端正な顔。焦り不安に支配された私の頭はパンクしそうだった。
私の手にあるハンカチを彼女は受け取りポケットにしまい、私を見た。鋭く見つめられた私はどうすることもできず、恐縮するばかり。
「・・・あのさ」
彼女が言葉を紡ごうとした瞬間、チャイムが鳴った。これは次の授業の開始を知らせるチャイムだ。それにサァと血の気が引くのが分かる。
遅刻だ。
「あの、ごめんなさい!止めてしまって、すみません。私、もう行きます」
そう言って私は科学室へ走る。気付けば、廊下に学生はいなかった。
後ろで何か聞こえたが、走ることに夢中になっていた私の耳に聞こえることはなかった。
急いで入った科学室にはみんな揃っていたけれど、先生は来ていなかった。安堵し、指定席へ座る。この科学の授業は決められた班で席が決まる。だから、仲間はずれにならない授業だから安心して受けられる。
コソコソ何か話している声が聞こえても、俯いて目を閉じることで逃げ出した。
今日一日の授業が終わり、帰り支度を済ませる。そこで私の席に影がさす。
息を飲み、これから言われるであろう言葉が推測できて悲しい気持ちになった。
「みんなが帰ったらいつものとこ」
逆らえず、俯いたまま返事をした。
ドコリとお腹を蹴られ、咽る。
女子トイレで、数人に囲まれる私はお腹を押さえ蹲るしかなかった。呼吸を整えように上手くできず、次の衝撃に耐えるように考えを巡らせる。
目を閉じて逃げようとしても、今度は肩に衝撃の痛みによって現実に戻される。声を抑え込み痛みを和らげようとする。しかし、痛みは決して消えない。
理不尽な暴力。理不尽な痛み。理不尽な悲しみ。
私は彼女たちに一体何をしたのか。この行為が始まった時に思ったことを今問いかけた。いや、いつでも問いかけている。私は一体何をしたからこんな行為をされているのか。
――気持ち悪い。
とても苦しい。
――吐き気がする。
怖い。何もかも怖い。
――めまいがする。
消えてしまいたい。
――痺れてきた。あぁ、もう
死んでしまいたい。
「何、してるの」
突き刺さるような冷たい声音に驚いて言葉が詰まる。
「ねぇ、聞こえてる?何してるの?」
私を囲む数人がたじろぐのが分かる。何か、声を上げているのも分かるのに、何を言っているのか分からない。でも、何故かあの鋭い声だけはきちんと耳に入る。
「それ、言い訳でしょ。こんな現場見せられて、具合が悪い子を介抱していましたなんて何の冗談?意味わかんないだけど。」
ばたばたと走る音と、「ちょっと!」と叫ぶ冷たい声。私を囲んでいた数人がこの場から逃げたのかもしれない。
ばれたことへの焦りか、不安か。それとも、この声の持ち主に対しての恐怖か。どちらにしろ、逃げたくなる気持ちが分かる。
あの美少女に睨まれれば、視界から外れたいと思う。
「ちょっと、大丈夫?立てる?ねぇってば」
「・・・」
「どこかやられた?見た感じ傷はないんだけど。蹴られた?」
私に近づきそう言って上半身を起こすのを、背中を支えて手伝ってくれた。ちらりと彼女を見るとやはりあの時同様に怒った表情をしていた。その表情に少し安心し大丈夫であることを伝える。
「聞いた私が言うのもなんだけど、大丈夫じゃないでしょ。なんなのあいつら。ねえ、これやばいよ。先生に言わなきゃ」
最後の言葉に私を支える細い手に触れた。
「大丈夫です。本当に、大丈夫です。だから、先生には言わないで。迷惑を掛けたくないんです。家族にも、あの人達にも」
「は・・・はぁ!?」
先生に言えば、私が受けたこれが露見する。私にだってこの行いがどれほど酷いかを分かっている。けれど、これが発覚すれば。あの子たちだけでなく、黙認しているクラスメートにも迷惑がかかる。そして、何よりも家族にも。
私の言葉に美少女は怒った表情を驚愕に変化させて、私を見た。頭を振り、理解できないというように私を見る。
「い、意味わかんない。何言ってるの?こんなことされて、黙れって?家族はともかく、あいつらに迷惑かけるって、あんた頭どうかしてる」
下唇を噛む。反論はできない。けれど、大事になるのは嫌だ。嫌なのだ。みんなに、家族に、困った思いをさせるのは。
母や兄たちの足枷だけにはなりたくない。足を引っ張る存在にはなりたくない。
嫌われたくない。見捨てられたくない。
どこにも居場所がなくても、ただこの位置を失うことだけはしたくない。
「お願いです。お願いです。言わないで。私は大丈夫だから。」
「・・・あんた、それでいいの。」
問いかけに何度も頷く。その頷きを見た彼女は溜息を漏らし、私を視線から外した。
「あんたとは今日初めて会って、頼みを聞く義理なんてない。けど、こんなことを止める義理だって私にはない。だから、言わないよ。」
相変わらず冷たい声に、冷たい言葉だけれど、私は安心した。けど、と彼女はそれから言葉を続けた。
「あんたをここに置いていくことはできないよ。一緒に保健室に行って親に迎えに来てもらうように先生には言う。一人で帰れるとは思えないし、無理だよ」
「え。まって、待ってください、それは」
「聞かないから。この現場を黙るのだって嫌なのに、一応あんたの意見を尊重したの。だったら私の意見だって尊重するべきでしょ」
私を立たせ、彼女は言う。お腹に走る痛みより、親に迎えに来てもらうことの方へ気持ちが向かって気にならない。血の気が引き、冷や汗をかくのが分かる。
制止を掛けても、彼女はもう耳を貸してはくれない。それでも母に連絡をいくのが嫌で何度も声を掛けていると、「うるさい、黙って」と鋭い水色の瞳で睨まれ黙るしかなくなってしまう。
保健室まで連れてこられ、ベッドに寝かされる。それから急に現れた私たちに驚く養護の先生に何かを話している冷たい声が聞こえ、次第に聞こえなくなった。数分して、彼女がカーテンで仕切られた私を寝かしたベッドのところに現れた。私のリュックを持って。
「あんなことされてるのに、これは無事なのね。一応、先生には具合が悪くて一人では帰れないので親を呼ぶように言ったから。」
「・・・すみません」
「あんた謝ってばっかだよね、会った時から」
「・・・すみません」
「いいよ、もう。謝んないで。私が悪いやつみたいになるから。」
リュックをベッドの脇にある机に置かれ、彼女は「それじゃあ」とカーテンを捲って出て行こうとするのを呼び止めた。こちらを見る水色は、冷たい。
「あり、がとうございました」
「・・・いいよ。お礼言われるようなことしてないし。―――じゃあついでに忠告しとくけどさ」
彼女の目が細まって、私を睨む。
「あんた、その死んだような顔止めといた方がいいよ。そんなんだからあんなことされるんだよ」
その言葉を残し、彼女は銀色の髪をなびかせ本当に出て行ってしまった。
目を見開き、私は唖然とした。
私はすでに死んでいたんだ。
震える身体を、左手を右手で握って抑えようとしたけれど止まらなかった。
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