4日目 日常


 豪快に転ぶ。

 膝と肘が床にぶつかり、声なき悲鳴を上げたような気がした。

 上から忍び笑いがして、その正体を知っているから顔も視線も上げたくなかった。俯いたまま立ち上がろうとして、膝たちになった瞬間に肩を足で押され尻もちをつく。髪の毛を掴まれ無理やり顔を上げさせられる。目に映るのは、嫌な笑顔。

 人を馬鹿にして、見下す人間への優越感溢れる嘲笑い。

 「何澄ましているの。あ、もしかしてもっと痛くしてほしい?」

 ニヤニヤ、そんな音が似あうような表情を張り付けて私を見つめ乱暴に髪の毛を離す。その衝撃で頭が後ろへいきそうになるのを耐えて視線を合わせないように、周りの視線から逃れるように俯いた。

 「ねぇ、言わなかったっけ?もう学校に来るなって。来たらこうなることぐらいもう学んだでしょ?」

 「・・・」

 クスクス、笑いを押し殺しているようなそうでないような声が聞こえる。

 「あんたがいるだけで、すっごくイライラするの。これね、私たちだけの意見じゃなくてクラスの総意なの、ねぇ、意味わかる?分かんないかな?このっ」

 頭に衝撃が走ったと思ったら上半身が床に倒れ込む。叩かれたか、蹴られたかしたのだろう。

 「もしかしたら学校の総意かもね。あんた見るだけで気分が悪くなっちゃうもん」

 ドン、という音と腹部の痛み。息が詰まり一瞬呼吸ができなかった。

 「うっ」

 言葉として成り立たない声を上げお腹を押さえる。今度は分かる。蹴られたのだ。

 「ぐ・・・う・・。」

 「あははは!良いざま!」

 身体を小さくして痛みを和らげようとするが、痛みはどんどん加速していく。目が熱くなっていき、瞼を強く閉じた。

 「うざいのよ、きもいの!!いい加減に自分の存在の意味理解したら!?」

 吐かれる言葉の暴力、繰り返される肉体的暴力。どちらにしてもそれは痛い。

 唇を噛みしめる。

 情けない。あまりにも惨めで滑稽だ。これだから、いけないのだ。

 何をされてもはむかえない。痛みを与えられても、何一つ言い返せずやり返すことができない。

 これだから、私は兄たちを乗り越えられず、母にも見てもらえないのだ。

 視界に映る力なく置かれた右手が踏まれ痛みが身体を支配し、咄嗟にその足をどけようと左手が動く。しかし、蹴られてそれはできなかった。

 「ねぇ?痛い?痛いでしょ?もっと痛がりなさいよ!何澄ましてんのよ!!!」

 澄ましてなんかいない。痛いよ、痛くて痛くて。あまりにも痛くて泣いているよ。でも毎日繰り返されることで涙は追いつかないんだ。泣きすぎて、涙は枯れてしまったんだ。

 終わりがない理不尽な行い。何度も待っても痛みから解放されることはない。学校でも家でも、外でも中でも、この痛みから逃れることはできない。

 嘲笑は止まらない。興奮したように私を痛めつける子を見て止めることもせず、ただ笑う人達。

 ここは、人気がない女子トイレ。放課後でほとんどみんな帰ってしまって、先生方も会議で職員室に集まっているからここを通り過ぎることはない。そんな時を狙って、私を痛みつける彼女たちは、本当に頭のいい人。

 「もう学校にこないでよ!」

 「もう私たちの視界に現れないでよ!」

 「どっか行って!」

 「いっそ死んで!!」

 「消えて!!」

 枯れてしまったはずの涙が一筋流れたような気がした。


 気が付けば、一人女子トイレで蹲っていた。彼女たちは帰ったのだろうか。

 立ち上がろうとして、節々が痛く動きが止まる。でも、ここから去る為には動かなきゃならず私は痛みを無視してヨロヨロと歩き、女子トイレを出る。

 廊下の窓から差し込む茜色が何時頃かを教えてくれる。歩きながらそれを見て、息を少し吐いて教室へ向かった。

 教室へ入ると、当たり前のように誰もいない。

 それに安堵し、自分の席へ向かう。

 リュックの中身を取られていなことを確認する。彼女たちは表面的な暴力的な行いはしない。全て裏で巧みに行う。頭が良い、表面上に傷を与えれば必ず誰かが気付く。家族か先生か。それを避けるために、盗ることはしない。だいたいは、だけれど。

 おそらく、小さなものはどこかに捨てられているかもしれない。でも、それを確認する必要はない。もう、疲れた。悲しむことに、苦しくなることに。

 リュックを背負いマフラーを巻き、校舎を出た。暗くなるグラウンドには後片付けをする部活の人々。和気藹々と行う姿を視界に入れないよう、私は歩いた。

 羨ましく思うことにも、疲れた。

 いつもより少しだけ遅い電車に乗り、今日は習慣を行わなくても遅くなるのでいつも降りる場所に降りない。電車が橋を渡っていると、川沿いの草原が見えた。あそこで時間を潰すのが習慣で、私は自然と見つめた。過ぎゆく景色の中で、あの場で出会った大学生のことを思い出した。

 豪快に上から下まで転がり、頬にかすり傷を作り足首を挫いたあの無表情な男性。長い前髪から見え隠れする山吹色の瞳がとても印象的で、今でも思い出せる。

 また転んでないだろうか。そんな心配が過った。

 左手を見つめた。あの人の前から逃げるように立ち去ろうとした瞬間、微かに触れたあの人の手。

 本当に一瞬。けれど、あの人の手のぬくもりがそれだけで伝わったように思えて、そしてそのぬくもりは今でもある。

 右手でぎゅっと左手を握り、口角が上がった気がした。

 「ふふ」

 自然と笑みが浮かび、過ぎゆく窓越しの景色を見た。




 なぜか、いつもと変わらない日だったくせに、どうしてか。

 素直に瞼を閉じ、眠りにつくことができた。

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