6日目 出会い


 いつもの駅で降り、家に帰らず河原へ向かう。運動場で子供たちが野球やサッカーで遊び、川沿いにあるコンクリートの道でマラソンや犬の散歩をする人とすれ違う。電車が渡る鉄橋の近くまで歩き、道を外れて坂になった草原に座り、川を見つめた。

 夕暮れが傾くまで時間を潰し、家へなるべく遅く帰る。

 ここ最近行っている習慣。

 私は高校生なので、そこまで遅くいるという選択肢はあまりないし勇気もない。だからできるだけ外に、ぎりぎりまでいる。

 冬。身体に吹き付ける風は寒く、けれど特に今日はいちだんと寒く感じマフラーに口元を埋めた。膝を抱いて目を閉じる。とても寒い。

 子供たちの声が聞こえる。他にも声が聞こえる。風の音が聞こえる。

 どれも私を苦しめる音。騒がしくて、気持ちが悪い。けれど、眠ってしまえば、何も聞こえなくなる。何も感じなくなる。だから睡魔が来るのをじっと待つ。

 そして、ふと考える。いつも考える。いつだって考える。

 死んでしまえば、何も感じずにすむのではないか。

 ・・・なんて、そんな考えを抱くだけで実行する勇気もなければ度胸も私にはない。けれど、次第にその思いが大きくなっていることは実感している。

 今、何をどう言われても、頑張らなくちゃと思っても、この身体は何もしたくないと訴える。

 目を開ける。視界がぼやけて、目元が熱い。それがどんな現象か、もう毎日のように経験しているから抑えるために目を強く閉じた。

「どうしてうまくいかないのかな」

震えたような声で呟いても、答えは返ってこない。

分かり切ったことを考えると、ゴロゴロゴロッという転がる音が聞こえ目を開けてその発生源へ視線を向けようとした瞬間、真横で何かが転がっていった。それを追うように目を向ければ、転がるそれは草原の坂の終りでうつぶせになって止まる。それが人であることは明らかで、もぞりと小さな動きが分かり助けを求めるよう周りに視線をやる。しかし、あんな音が鳴って倒れている人がいるにも関わらず、誰も近づくこともしない様子に慌てて私は坂を下りた。

 「だ、大丈夫ですか?」

 絞り出した声はどもりながらも何とか求める質問を発することができた。転がった人は蒼みがかった短髪で、その髪を抑えるように頭を触りながら起き上り「痛い」と私の問いに小さく答えた。面倒そうな、だるそうな、そんな低い男性の声だ。

 顔を上げた男性は私を見た。目よりも長い前髪の隙間から見える山吹色の目と視線が合って、言葉が詰まるのを感じる。しかし、ちらりと見えた目の下から鼻の先の横まで擦り切れた傷を見て私は慌てた。

 「傷っ、が」

 指さして傷の場所を教えると、男性は傷に触れ片眉をピクリと動かす。あまり表情が動かないのは常なのだろうか。私は「少し待っていてください」と言って川に走る。制服のポケットからハンカチを取り出し、川の水で濡らし軽く絞って、男の人のところへ戻った。

 男の人は私を見ていて、それが少し恥ずかしくてハンカチを差し出す。けれど、ハンカチと私を交互に見るだけで、受け取ってくれない。

 「これ、使ってください」

 「・・・でも、君のハンカチが汚れるけど」

 「いいんです、ハンカチは汚れるためにあるんです」

 そう言うと礼を言って渋々とそれを受け取ってくれ、傷に当てた。冷たさと痛みに、目元がピクリと動いたのを見て、やはり痛いのだと改めて思った。

 「あの、他に怪我したところはありませんか?」

 そう聞くと、男の人は慌てた様子もなく「足首を捻ったかも」なんて言いのけたのだ。

 「けど、歩くのには支障はない。大丈夫。」

 ほら、と立ってみせて無表情で私を見る。確かに大丈夫そうに見えるが、きっとやせ我慢をしているに違いない。けれど、赤の他人である自分に心配かけさせないと思っているのだろう。

 だから私は「そうですか」とこれ以上深追いをしない。

 数秒、私たちの間に会話はなかった。けれどそれで、そう言えばさっきまでいろんな声が聞こえていたということを思い出す。

 「・・・何もないところでつまずいたんだ」

 「え?」

 すとんとまたその場で座り込み頬にハンカチを当てたまま男性は話し出す。私はどこかに向けていた視線を男性に向けると男性はその山吹色の動かない目で私を見ていた。

 「それで、バランス崩してこっちに転がったんだよ。大学生にもなってこんな豪快に転ぶなんて思ってもみなかった」

 表情を動かさずそう言う男性は大学生の方らしい。

 確かに、滅多に転がる人を見ることはないし、ましてや大学生が転がるなんて珍しいだろう。それを思って少し笑えた。

 「私も初めてあんな豪快に転ぶ人を見ました」

 そう正直に言ってしまったことに気付いて、手で口を押える。なんて失礼なことを言ってしまったのだろうか。俯いて視線を泳がしてしまう。どうしよう、怒ったかもしれない。

 

「だよね」

 

だが、返ってきた言葉は予想と違ってただ何の変りもない音で同意された。

 座っていても私よりも高い身長の大学生を見上げれば、表情はない。けれどそこに怒りが感じられない。そのことに安堵する。

 男性は頬に当てていたハンカチに一瞬視線をやり、私を見た。

 「これ、洗って返す」

 その意味をすぐに理解した私は首を振った。

 「いいえ、いいんです。どうぞ貰ってください。」

 「でも」

 「本当に、大丈夫です。代わりのハンカチありますから」

 立ち上がりながら早口に言って私は頭を下げ男性に背を向け、走る。

 


一瞬。ほんの一瞬だけれど。走り去ろうとする私の左手に彼の手が触れたような気がした。けれど、確認することもなく私はその場から去った。

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