第29話
思えばあの頃が僕たちのバランスを一番良く保っていたときだろう。
いつからか旋律が狂いだし、
不協和音を奏でるようになったのか―――
もしかしたらそれは―――花音が家に来たときから徐々にはじまっていたのかもしれない。
『はじめまして』
あの少し低めの
どこかくすぐられるような特徴のある色っぽい声。あの声を聞いたときから―――
あの美しく聡明で―――才能溢れる彼女に……
“妹”だと知っていても惹かれる自分の気持ちを、
止めることができなかった。
止めるべきだった。
狂った旋律は調律されることなく、狂ったまま恐ろしいほどの美しいメロディを奏で、
まるでオルゴールのように繰り返し繰り返し僕の脳内に流れたまま。
十年前のあの日、あの晩―――
花音が僕の部屋に訪ねてきた。僕の部屋にはパガニーニ のヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調「ラ・カンパネラ」が鳴り響いていた。CDを掛けていたのだ。
それは次のコンクールで花音が弾く曲だった。パガニーニは『悪魔に魂を売った』と噂されるほど難易度が高い曲が多い。
ヴァイオリンの重音奏法や、視覚的にも演奏効果の高い左手ピッツィカートなど強烈な技巧が随所に盛り込まれている。
十七歳の花音が弾くと知って驚いたが、同時に彼女なら弾きこなせるだろうと思っていた。実際、僕はこの曲を弾くのは苦手だ。
何の感情もなく、ただ彼女を招き入れ
『僕は少し苦手だけどこの曲が好きなんだ』
取り繕って苦笑いを浮かべたのに対して、花音はゆるゆると首を横に振っただけだ。
『おかしくないわ。私もこの曲、好きだもの。
それに苦手と言ったけれど、兄さんが弾く“ラ・カンパレラ”はあの独特のリズムと力強さはもちろんだけれど、美しい高音は不思議とどこか静かで、温かくて好きなの。パガニーニの新しい一面が見えるわ。
だからね、私
兄さんが弾くヴァイオリンが―――好きなの。
変かしら。
兄さん、私のこと好き?
私は―――
兄さんのこと、好きよ
変かしら―――』
あの言葉を聞いたとき、オルゴールは壊れ、
僕の気持ちが
壊れた。
狂ったままの旋律は、
調弦されることなく。
今でも不協和音を鳴らして、頭の中で響いている。
止めるべきだったんだ。
後悔しても―――もう遅い。
大音量で鳴らしたパガニーニを部屋中に満たし、僕たちはベッドでもつれあうように
抱き合った。
たった一晩の
過ちだったんだ。
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