第16話


「何だ~愛する嫁さんのラブメールかぁ?」一人が茶化して僕を小突く。



店で一緒に働いていると成績を争うライバルたちではあるが、皆根がいい人間だ。やっかみや足の引っ張り合いと言う険悪でありがちな雰囲気ではないのがありがたい。



と言うかヴァイオリンの世界で思い知ったライバルたちの目よりも、幾分か彼らの目の方が穏やかだったと言うべきか。



彼らは僕がコンクールに優勝するたび「紫藤だから」「やっぱり紫藤だな」としきりに“紫藤”と囁いていた。




僕の名前が有名なのは、




父親でもあり偉大なマエストロ“紫藤 晋しとう すすむ”の息子だからだ。



『ヴァイオリンの腕なんてどうでもいい。ようは名前があるヤツが売れる』



『いいよな、父親が有名人って』



『コンクールでも審査員の目に止まるしな』



そう言われ続けてきた。






とにかく長い道で知った苦しみに比べると、易しいものだ。



不思議だな。



どの世界にいようとみんな生きることに必死なはずなのに―――それでもあの世界よりも平穏なこの生活の方が



夢のような気がする。





「月末締めも終わったし、これからみんなで飲みに行かね?お前も来るよな、紫藤」一人が僕の肩に気軽に腕を回しながら笑う。



今から?



確かに明日は店の定休日だが、



「あー、俺パス。今月小遣いピンチなんだわ」



妻帯者である一人が顔の前で手を合わせる。



「俺もパス。今月妹の結婚式でさ~、祝儀代出したらマジで苦しい」



平均年齢三十歳の男女が集まると“結婚”と言う話題が自然に多くなる。



その中で結婚をして家庭を持っているのは半分ほど。



かく言う僕も今年で三十になるが妻帯者だ。



何気ない会話なのに






妹―――……






と、言う言葉に耳の先がぴくりと反応する。



何故僕は彼の左側に居なかったのだろう。そうすれば聞こえずに済んだのに。



「あれ、お前妹なんて居たの?」



「今年27歳になる。まぁいい年齢っちゃいい年齢だな。兄貴としては妹の貰い手がやっと見つかってほっとしてる」



「ってかあんたこそ早く身を固めなさいよ~」



同僚たちは笑いながら、からかいながらも会話を進めている。




僕はただ一人―――意識がその場から離れていた。



まるで魂が引きずられるかのように意識が遠のき、



逃げ出した“過去”がまるで妖艶な笑顔を浮かべるように妖しく呼びかけていた。



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