第15話
―――
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参ったな……まさか、昔の僕を知る人間が近くに居たなんて…
僕がヴァイオリンを辞めてから十年も経ったし、さすがに顔も変わるだろうけど、念のため視力が悪いわけでもないのに度の入っていない伊達メガネをしていたし、第一、一ヴァイオリニストの名前なんて誰も覚えていないと思ったが…
閉店作業を終えて、従業員出入り口の脇に位置している喫煙コーナーでイライラとしながらタバコを吹かせ、
それでも毎日の日課である「今から帰るよ」メールを妻に送っている最中だった。
男女の同僚が数人、出入り口からわらわらと出てきたことに気付かず、じっとスマホ画面を見つめて文字を打っていると、
「紫藤、今月も一位おめっとさん!」
すぐ近くで声が掛かり、突然肩をぽんと叩かれて僕はびっくりして目を開いた。
「何だよ~『お疲れ』って言ったのに、無視されたかと思った」
「…あ…いや、聞こえなくて…」
無視したわけじゃない。本当に聞こえなかったんだ。僕は右耳に僅かに触れた。
僕は―――右側の聴力が極端に弱い。
前に一度鼓膜の手術をしたからだ。全く聞こえないわけではないし……それなりに集中すれば左耳だけでも充分用が足りる。だけど今は気が抜けていたのか、それとも苛立っていたからなのか…
「ありがとう」
僕はイライラを拭い去り、いつもの作った笑顔を浮かべて軽く手を挙げた。
何故だろう。
生きてきた時間のほぼ三分の二ほどをヴァイオリンに費やしてきたって言うのに、案外接客の方が楽しくてやりがいを感じている。
物心付くころからヴァイオリンは僕の一部だった。
いつからその道を捨てようと思ったのか。明確には思い出せないが、それでも選んだ道に後悔など一ミリもしていない。
十年前のある日、僕はヴァイオリニストになると言うほぼ強制的な夢を捨て、同時に解放され―――
“紫藤”の名から逃れ、
この大都会東京の、たくさん居る人々と同化するように今日までその日々をひっそりと生きていた。
今の僕は……そうだな、
例えば
『今から帰る』…と言うメールを妻に打っていることでさえ、まるで異世界の出来事のように思える。
この店の元従業員であった妻は、僕の過去を知らない。だから僕の方もいくらか気が楽だった。
結婚して二年、毎日かかさず送っているメールも、平穏なやり取りも。
幸せと言うのだろうか―――
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