猫の旅館

藍治 ゆき

猫の旅館

 私は、少し前に、猫のいる旅館へ泊まった。それは京都にあった。可愛い三毛猫が出迎えてくれた。


 私の足にすり寄ってきたので、大将に


「マタタビでも持ってます?」


と聞かれた。


 持っていないと答えると、大将は不思議そうな顔をしていた。





 猫は夜行性なので、うるさくて眠れないかと思ったら、案外静かで、眠れた。


夜眠っていると、


「ダンナァ…、ダンナァ」


 と枕元でそう声が聞こえた。低く、蠱惑的な声だった。


 目を覚ますと、私と同じ背丈の、八割れの猫がこちらを覗き込んでいた。


「わっ!」


 私は驚き飛び起きた。 


「そないな大声出すとォ、他の客も目ェ覚ましますえ」


 猫は目を細めて言った。


「ば、化け猫っ!」


「そんなん言わんといておくれやっしゃ。わしも、立派な猫どす」


 見事な京言葉で話す猫は、正座をして私の枕元に座っていった。


「そんなんはどうでもいいさかい、ダンナ、一杯いかがどす?」


 猫は縁側を指差した。そこには座布団が二つ、その間の机には日本酒と杯が置いてあった。


 私は夢だと思った。


「まあ、いいよ」


 私は猫の誘いに乗ることにした。私たちは縁側へ移動した。


「中秋の名月どすなァ…」


 猫は満月を見上げてそう言った。


「そうだな」


「ダンナ、ほれ」


 猫は日本酒と杯をこちらに向けた。


 私は杯を持つと、猫は日本酒を注いでくれた。


「あ、ありがとう」


「じゃあ、ダンナも」


 猫は日本酒を渡してきた。注いでくれ、ということだろうか。


 猫も杯を持ったので、私は猫に日本酒を注いだ。


「じゃあ、それ、乾杯」


「乾杯…」


 猫と酒を飲むだなんて、変な話である。


 猫はぐびっと酒を飲んだ。


「ぷはあ、月見の酒ほど美味いものはあらへん」


 猫は言った。


「酒が好きなのか」


「それはもう、好きどすえ」


 杯が空になった猫は、自分で日本酒を注いで、またぐびっと飲んだ。


 変な猫だ、そう思った。


「ダンナは、独り身どすか」


「突然なんだい」


「いや、最近女房と、うもういってへんのどす。話しかけても、見向きもしいひん」


 猫にも事情があるのだなと思った。


「君が何かしたんだろう」


「特に見覚えはあらへんのどすけどなァ…」


「その酒のせいじゃないか?君、普段も飲んでいるんだろう」


「いえいえ。わしは客人としか飲ましまへんで。一人酒、どうも苦手で」


 猫はぼりぼり頭を掻いた。


「奥さんと飲まないのか」


「女房は飲まへんのどすえ」


「そうか…」


 私は顎に手を当て、暫時考えていたが、何も思い浮かばなかった。


「そういうたら、猫の国とやらに行ってみたんどすえ」


「猫の国…?」


 私がそう問いかけると、猫は杯を置いて


「そらもうぎょうさんの猫がいてはった。さすが猫の国や思た」


 と言った。


「私も行ってみたい」


 私はそう言った。夢の中は、おかしなことをいくらでも言って良いのだなと思った。


「ダンナ、わしもって言うたって、あんた猫とちがうちゃうん。そう簡単には猫の国には行けへんで」


 猫は顔をしかめて言った。


「そ、そうか」


 私はやっと日本酒に口を付けた。


「まあええわァ。猫の国では、あのおっきな温泉良かったなア」


「猫は水が嫌いじゃないのか」


「猫の国の温泉は一味ちゃうんやわァ。あの温泉やったら、猫誰でも入れる思うで」


「不思議だなあ…」


「ほんまに不思議どすなァ…」


 私たちは、満月を見上げた。


「もし、わしの女房に会うたら、よろしゅうと伝えなはれ」


 猫は静かに言った。


「私は、君の奥さんに会ったことないよ」


「次期、出会う思うで」


 猫は少し寂しそうな顔をして言った。


「分かったよ」


 私は猫の奥さんの特徴を聞き出しておけば良かったと、今更思った。





 目が覚めた。朝になっていた。


 縁側を見ると、座布団はしまってあって、日本酒はなかった。


 不思議な夢を見たな、と思って伸びをした。


 旅館を後にするとき、また三毛猫が足にすり寄ってきた。


 通りがかった旅館の大将が


「本当にマタタビ持ってません?」


 と聞いてきた。


「持っていませんよ」


 そう言うと、また大将は不思議そうな顔をした。


「この子はよその人にあまり寄り付かへんのどすけどなぁ。最近、この子の夫が亡くなったんで、寂しいのかもしれしまへんなあ」


「その夫の猫って、八割れの猫だったりします?」


 大将は目を丸くして


「どうして分かったんですか」


 と言った。


 ああ、そうか、と私は思った。


 私はしゃがんで、三毛猫を撫でた。ごろごろ言っている。


「君の夫は、天国…いや、今頃猫の国で温泉にでも入っているよ」


「にゃーん」


 三毛猫は私の脇をすり抜けて行った。

 

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猫の旅館 藍治 ゆき @yuki_aiji

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