第44話 黒の子猫
宰相が頭を巡らせている一方。
新しい忍者宿舎が王都の郊外の一角で完成した。
かなり大規模なものだったので城内ではなく郊外の丘陵地に建てていたものである。
木造2階建ての瓦葺き屋根で1階には部屋が25室、2階には30室。
1室の部屋は6畳と広くはないが押し入れや箪笥、布団が完備され、食堂、大風呂、シャワー室、談話室には掘り炬燵もあった。
数週間という短期間でこの規模の建物が建てられたのは、白魔導士の物を浮かせる浮遊の術と資材を遠くから瞬時に運べる結節点魔法のおかげである。
これらの白魔法は便利ではあるが商業目的に使ってはならないと王律で決められている。
そうしなければ物流で儲けている商売人たちに打撃を与える上に、中継地点の整備と発展、馬車などの改良にも悪い影響を与える、という王国上層部の判断である。
自分たちの宿舎の立派さに忍者たちは感動したが、一番歓声が大きかったのは別棟として建てられた100畳もの広さの道場である。
しばらくの間、その畳の上に忍者たちの幸せそうな行き倒れの姿が多く見られた。
「畳、サイコー……」
「この匂い、そう、これだよこれ!」
「畳……なにもかもが懐かしい……」
みなうつ伏せになり、匂いを吸ったり畳を撫でたりと異様な光景であったが、サカキやアゲハ、ケサギとムクロ、ヒムロとヒカゲの姿もその中にあった。
その光景を見て、作業にかかわった建設騎士団は「苦労して畳を輸入してよかった」と心の中で拳を握って喜んだ。
――松崎藩本丸御殿主室――
長年可愛がっていた
よりによってこの泰時の姿に、女はうっかり「ウツロ様」と呼び掛けてしまった。
たったそれだけのことでウツロは何も考えずに反射的に女を斬った。
それを敵側の諜に知られた。
追手をかけ2人は殺ったが、1人逃した。おそらくウツロの名はローシェの忍者どもに伝わっただろう。
(まあ、名が知られたところでどこにも記録には残っていないはず。
それはいいのだが、女の肌に触れていないというのはどうも手持ち無沙汰だな…)
いつも膝の上に乗ったり、そっと背にもたれていた、猫のように甘やかな声の側女はもういない。
かと言って、新しい女を呼ぶ気持ちにもならなかった。
「右近次、そなた、
「お断りします」
即答だった。
「ふん、かわいげのない……少しは驚いて見せよ」
「貴方様に衆道の相がないことは存じております。手持ち無沙汰だからといってからかうのはおやめください」
ウツロは左近次に目をやると、彼もそっぽを向いた。
ウツロの従者である右近次と左近次は兄弟ではなく、名前も本来のものではない。
が、二人は顔立ちや体つき、そして性格も非常によく似ていた。
彼らは代々般若衆の頭領に仕えて来た家の武士の血筋で、かつては侍と呼ばれていたものたちだ。
松崎城に入城してからは2人とも高価な絹の着物を着て所作も凛々しく立ち振る舞っていた。
「つまらんな」
愚痴りながらもウツロの頭は秋津の未来をどう動かすかせわしなく働かせている。
現状では、予想外に光川家が勢力を伸ばしつつあった。
その資金源のひとつにローシェがいるのはわかっている。この松崎城がある龍田藩が紫藤家に付く、と宣言してからローシェは光川家の隠れた出資者になったようだった。
もともとウツロには、ローシェに負担を増やす目的があった。
しかし、ローシェの資金力はウツロの予想をはるかに超えていた。
おそらく、ロルド・ヴァインツェルの巧みな隠蔽工作によって、王国内外に巨万の富の存在が隠されており、光川家に一部を流したところで痛くも痒くもないのだろう。
松崎藩の周囲には光川氏に与するものが多く、ウツロはそれらとの攻防に力を砕いていた。
不利な状況ではあるが、これから少しずつ紫藤氏に寝返るよう密かに工作を進めている。
(おそらく、それほど時間はかからず、光川と柴藤の勢力は拮抗し、逆転するだろう。
その時こそ我ら般若衆が主権を握る時代がくる。
しかし、その先何十年もそれを維持するにはやはりローシェを手に入れねばならぬ。
狭い秋津の国内だけで戦をやっていればよい時代ではないのだ)
「殿、お庭にこのようなものが忍び込んでおりました」
左近次が何かを抱えて傍に寄ってきた。
「ニャー」
一匹の黒猫であった。
「猫か……」
「まだ子猫のようです。親とはぐれたのでしょう」
ウツロが手を伸ばすと、そちらへ行こうとする。
左近次が畳の上に置いてやると迷わずにウツロの膝に乗ってゴロゴロと喉を鳴らした。
「そなた……あれの生まれ変わりか?」
「ニャ」
と返事をした。
「そうか。ではここにいるといい」
ウツロの苦い顔が少しだけ緩んだ。
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