第78話

ある晩、珍しく帰宅した麗奈が、眠っている純の寝顔を眺めていると――


「……!」



不意に、一夜を共にした男の寝顔を思い出してしまった。



刹那せつな、強烈な殺意に駆られた麗奈は、台所にあった包丁を右手に握り締め、左手で純の首を掴んだ。



「!」



息苦しさに目を醒ました純が見たのは、鬼よりも恐ろしい顔をした母親だった。



薄暗闇の中で、包丁の刃だけがギラリと鈍く光る。



どうせ望まれて生まれたわけではないのだと自覚していた純は、このまま殺されてしまっても構わないかと一瞬だけ考えたが――



沙那の笑顔を思い出し、また会いたいと強く思った。



「っ!」



慌てて身をよじり、振り下ろされた包丁を間一髪のところでかわす。



「あんたが憎い……!」



「……」



「その蒼いが憎い……!」



母の言葉が、自分に向けてなのか父に向けられたものなのかは分からない。



だが、ここで殺されるいわれはない。



純は隙を見て走り出した――が、すぐに麗奈に足首を掴まれて前のめりに転んだ。



無防備になった純の背中へと、麗奈が包丁を突き立てた。



「……っ!!」



上げたはずの悲鳴が、痛みのあまり声にならなかった。



振り返ると、涙で滲んで見える視界の中で大粒の涙を流しながら狂ったように笑っている麗奈が見えた。



その麗奈の目に、もう純の姿は映っていなかった。



天井を見上げ、ひたすら泣きながら笑い続けている。



背中に包丁を刺したまま、純はふらふらする足で家の外へと逃げ出した。

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