第5話
口から出掛けた言葉を飲み込むと、高槌は泣きそうな表情を浮かべて悲痛な声を上げる。
「頼子にバレたら小遣いがぁ!!」
懇願するように身体をホールドされた結希は、その場から逃げたい一心で叫んだ。
「あーはいはい! 言いませんから! 手を離してくだい!」
「本当かい!?」
「いいませんよ!!」
中々離れようとしない必死な高槌の様子に、結希はとうとう堪忍袋の緒が切れて、お得意様には到底向けられないような暴言を吐く。
「──だから、この手を話せ! このセクハラおやじ!」
(……あ、ヤバイ。つい口が滑った)
失敗したなと思うと、私の暴言を聞き逃さなかった高槌はこれまた一変して驚愕した。
「なっ……!! お、おやじ!?」
結希は内心で舌打ちを零すと、やっと離れた高槌が女学生のように身を縮ませた格好をしているのを見て、冷ややかな目を向けそうになった。
うるうると瞳を潤ませて高槌は結希に聞き返してくる。
「伊南くん。今おやじって言った!?」
「気のせいですよー」
すると高槌は腕を組んで不遜な態度を見せる。
「それはいくらおやじでも傷つくよ!?」
「スミマセンデシタ」
「なんだいその態度は! どうやら伊南くんには再教育が必要みたいだね! 今度、頼子のところに来なさい!」
「あーはいはい、分かりました。今度伺います」
面倒なことになったと結希は内心で溜め息をついて適当に返事をする。
(はぁ……。高槌さんの相手はやっぱり面倒くさいなぁ)
溜め息をついて、頼子さんの居酒屋に行くときは晴樹も誘って行こうと誓うと、本題へと話題を戻した。
「それより。これ以上、彼女を口説こうとしないで下さいね」
「なぜだね?」
「なぜ……!?」
一瞬、自分の耳を疑いそうになった。
(ここまで来て、まだ諦めないつもり!?)
こんな往来で騒いでいるのに、高槌はまだ彼女のことを諦めるつもりがないようだ。
少々、我儘の過ぎる高槌の態度に結希は怒りが湧き上がって来るのを感じながらもニッコリと微笑んだ。
「どうやら高槌さんにも再教育が必要みたいですね?」
笑みを浮かべたまま軽く睨むように目を細めると、逆鱗に触れたことを悟ったのか、高槌さんは軽く両手を上げた。
「分かった!今日はこれで失礼するよ」
「今日だけじゃなくて。明日も、明後日も、彼女には絡まないで下さい。彼女、純粋なんですから」
知り合いだと仄めかせて牽制すると、高槌は口を尖らせて聞いてきた。
「ちぇー。なんだい伊南くんも狙ってるのかい?」
牽制の仕方が良くなかったとは言え、同性愛者だと疑われるようなワードを口にされて、結希はこれ以上黙っていられなくなってしまった。
「……ちょっと、高槌さん?」
「ならしょうがない。彼女は諦めるとしよう」
結希の雰囲気が変わったのを感じた高槌は逃げるように手の平を返す。
(このセクハラおやじめ……)
内心で悪態をつくが、やっと諦めてくれそうな言葉に深呼吸をして気を鎮め、この場を収めることが出来るならと高槌の言った通りにしようと心に決めた。
「そうですね。諦めてくれるとありがたいですね」
「応援してるよ。うまくいったら祝ってやるからな」
「はいはい、ありがとうございます」
その時は高い酒でも買ってもらおうと決めた。だからと言って彼女に手を出すつもりはないが。
やっと潔く帰ろうとする高槌さんの後ろ姿に、結希はカウンターに置いてあったモノを見逃さなかった。
去ろうとしてる背中を引き止める。
「高槌さん。忘れものですよ」
「うん?」
振り向いた高槌さんにカウンターに置いてあった折畳まれた紙を指で挟むとピッと上げて見せる。
その紙を見て拗ねた顔でふらふらと戻って来ると、不満気に声を上げた。
「目敏いな君は」
「目敏いな、じゃないですよ。今度騒いだら本当に奥さんに言いつけちゃいますからね!」
「分かった分かった。もう大人しく帰るよ。あぁそうだ。晴樹くんにもよろしく伝えておいてくれ」
最後にそれだけ言い残すと、「またね」と笑って帰って行った。
その態度に結希は気づいていた。「またね」の言葉は絶対に結希ではなく、彼女に投げかけたものだろう。
それでも、ココで突っ込んではまたふざけ合ってしまうので、ひらひらと手を振って見送る。
姿が見えなくなってやっと一息ついた。
「あぁぁぁぁ……」
あの人が帰ってくれたことに喜びで長い溜め息をつくと、恐る恐ると言った声音で彼女の声が聞こえて来た。
「あのぉ……」
彼女の声に結希は慌てて折った腰を伸ばして彼女を向く。
安心している場合ではない。知り合いに絡まれていた彼女に対して謝るのが先だ。
そう思い直して背筋を伸ばすと軽いかもしれないが、片手を上げて謝った。
「ごめんね。うちの客が迷惑かけて」
「いえっ!助けてもらってありがとうございました」
受付嬢の彼女は首を横に振ると勢い良く頭を下げてくる。
結希は呆気に取られたが、我に返って彼女に言った。
「あなたは何も悪くないよ」
「でも……」
申し訳なさそうにしながら頭を上げた彼女の顔を見て、結希は無意識のうちに息を呑んだ。
小柄な体型をした彼女は、きめ細やかな白い肌をしていて。ショートヘアの栗色の髪は艶めいて輝き、メイクアップは自然体な感じで薄く施しているようだった。
全体的に清楚のイメージが結びつけられる外見と。柔軟剤の香りなのか、石鹸の仄かに甘い香りに意識を持っていかれれる。
しばらくの間その容姿に見惚れていると、首を傾げた彼女と目が合って結希は口を開いた。
「あの人。クセが悪いだけで良い人だから。また口説いて来たら主導権を握るつもりで話せばいいわよ」
「は、はい!」
「あの人の相手、出来そう?」
「大丈夫です。すみませんでした。お見苦しいところをお見せしてしまって……」
「いやいや、むしろあたしたちの顧客がごめんね。大変だろうけど頑張って」
最後に「じゃぁ」と手を振って立ち去ろうとすると、彼女から「あの!」と引き止められた。
「お名前を伺っても良いですか!?」
「私の?」
まさか名前を聞かれるとは思わなくて、思わず聞き返してしまう。
彼女は「はい」と言って頷いた。
「伊波結希よ。あ、これ良かったらあげるわ」
結希は鞄からカードケースを取り出すと、一枚の名刺を彼女に渡した。
「ありがとうございます」
「また何かあったらここに連絡しても良いからね」
優しく微笑むと、女性もつられたように仄かに笑う。
その時、自分の心臓が大きく跳ねたのを結希はちゃんと聴こえていた。
けれど何も聞こえなかったように振る舞って彼女と別れると、外に出て携帯を開く。
携帯には莉乃と奏恵からメッセージが送られていた。
画面をタッチすると送られていた住所でマップを開く。それから大体の位地を確認して、二人が待っているお店へと向かったのだった。
歩きながら結希は今日で何度目かも分からない溜め息をつく。
胸に手を当てるとドクンドクンと鼓動が変に脈打っているのが分かった。
(……困ったなぁ)
名乗れば良いだけのところで名刺なんか渡して。
結希自身でも知らずに含ませていた下心が、彼女に見えていなか心配になる。
重たく立ち止まりたくなる足を動かして、心配する胸中に紛れ込んでいた期待を抱えながら、暑く感じる陽射しを浴びていた。
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