1-4


「……ちょっと失礼。ルシア王女殿下……ってお取り込み中でしたか」

「フェリックス?」


 どうやらルシアの部屋に、フェリックスが顔を出してくれたらしい。

 ルシアはしょうしつつ寝室を出て、フェリックスを迎えた。


さわがしくて申し訳ないわ。湖の間が本当の湖になってしまったみたい。私は人間だから、

湖の女王のように濡れたままでは眠れなくて、片付けをお願いしたところよ」


 王族や貴族の会話は、直接的な言葉を用いることはあまりしない。

 ルシアはこのさんげきを遠回しにフェリックスへ伝えた。


「湖……?」


 ルシアはフェリックスを連れて部屋の中を見せる。


 フェリックスは、ありとあらゆるものが濡れて着替えの衣装も使えなくなっている状況に顔をしかめた。


「うわぁ……」


 ルシアはフェリックスのその表情に少し救われる。こうやって一緒に呆れてくれる人がいるおかげで、さけんでから修道院にんでやろうという強いしょうどうを抑えることができた。


「心配しないで。犯人はわかっているから」

「なんというか……もう少し前に様子を見にきたらよかったですね。すみません」

「貴方が謝ることではないわ。湖の間を湖にできなかったら、違う形の嫌がらせをされるだけでしょうから」


 ルシアはそう言いながら、今はこの状況をどうにかすることだけを考えようと自分に言い聞かせる。


「ルシア王女殿下、申し訳ありません。着替えの用意に時間がかかりそうで……」


 ルシアとフェリックスが比較的無事な執務室へ戻ったら、駆けつけてきた女官が勢いよく頭を下げた。


「この際、なんでもいいわ。母のドレスは残っていないの?」

「……申し訳ありません。全て片付けられております」


 ルシアは使用人のネグリジェでもいいと言いたかったけれど、すぐに考え直す。そんなことをしたら、妹たちによってめいうわさが立てられるはずだ。

 不快感と不名誉な噂、どちらを選ぶべきか迷ってしまう。


(早く着替えたいのに……)


 ドレスが濡れたままになっている。下着が濡れなかったことだけは幸いだった。


「王妃殿下や他の王女殿下のドレスは借りられないのか?」

 フェリックスがドレスなんていくらでも王宮にあるだろうと女官に迫れば、女官は「えーっと」や「その……」をかえす。


「フェリックス、王妃殿下や妹がドレスを私に貸すわけないでしょう」

「……貸すだけなのに」

「ええ、そうよ。貸すだけよ。それでもできないの。晩餐会でそれがよくわかったわ」


 ルシアのドレスを濡らし、着替えのドレスがない状態にし、使用人のものを借りさせ、それを噂にしてルシアの評判を落とす。この全てが彼女たちの計画のうちだ。

 ルシアがどうやって切り抜けようかと考えていたら、フェリックスは笑った。


「ルシア王女殿下、姉のしきにお招きしてもいいですか?」

「貴方の姉はたしか……マーガレット・フィンダルこうしゃくじん?」

「はい。姉ならルシア王女殿下を歓迎してくれます。友達になることとお招きすることの順番が逆になりますが、お友達の家へ挨拶しに行き、話が弾んでまることになった……というのはおかしい話ではないでしょう」


 フェリックスの提案はルシアにとってありがたいものだったけれど、マーガレットとは一度も話したことがないので、本当にいいのだろうかと躊躇ってしまう。


「ここでルシア王女殿下をお助けしなければ、俺はあとで姉に𠮟しかられますよ。なぜ連れて

こなかったのかとね。はい、決まりです。すぐに行きましょう」


 フェリックスは驚いている女官に「そういうことだから、陛下に上手く伝えておいて」と頼んだ。


「……フェリックス、もう少し待ってくれる? ドレスのうしろが濡れているの」


 ルシアはフェリックスと共に歩き出した直後、はっとして足を止める。

 せめて湿っぽい程度になるまでだんに当たって……と考えていたら、フェリックスはルシアの横に立った。


「失礼します」


 フェリックスのひだりうでがルシアの背中に、みぎうでがルシアの膝をすくう。

 視界が急に変化したルシアは、悲鳴を上げそうになった。


「フェリックス!?」

「これならドレスが濡れていても問題ないですよ」

「……っ、このまま歩いたら危ない気がするけれど……!」


 ルシアは、こんな風に抱き上げられたのは初めてだ。なんだかとても不安定な気がする。落ちるのではないかと心配してしまった。


「手を俺の首に回してください。両方ともです」

「こう……?」


 ルシアの細くしなやかな手がフェリックスの首に回る。

 それを見ていた女官は、顔を赤くしてしまった。ただの善意のこうとはいえ、美男美女の親密すぎるきょはあまりにもげきが強かったのだ。


「王女殿下が慣れるまでゆっくり歩きますから、ご安心ください」

「ええ、そうしてほしいわ」


 フェリックスはルシアを抱えたままゆっくり移動する。


(……本当に大丈夫なのかしら)


 ルシアは緊張していた。階段を降りるときは、更に緊張した。一段下がるごとにがくんと身体が揺れるからである。

 ルシアは皆に注目されていることに気づいていたけれど、慣れないことに必死になっていて、周囲の視線を構うゆうはなかった。


「降ろしますね」


 フェリックスは、馬車の横でルシアの足の裏を地面にそっとつけてくれる。

 ルシアはようやくほっとできた。やはり自分の足で立つのが一番だ。


「ははっ」


 すると、フェリックスはなぜか笑い出した。

 ルシアは、ドレスがみっともないことになっているのではないかと慌てて確認しようとしたけれど、フェリックスに止められる。


「大丈夫です。いやいや、女の子にそんな反応をされたのは初めてで」

「そんな反応……?」

「落ちるのではないかと不安にさせたことはないんですよ。こういうことをすると、みんな俺の顔を見ていました」


 ルシアは瞬きをして、なるほどとなっとくする。


「確かにあしもとばかりを見ているよりも、貴方の顔を見ている方が不安にならないかもしれないわね。次があったらそうしてみるわ」

「ははは! そうしてください」


 フェリックスは先に馬車の中へ入り、ルシアに手を差し出してくる。

 ルシアはその手を取ろうとしたけれど、ちゅうで手を止めた。


「待って。このままだと座席を濡らしてしまうわ」

「う~ん、そんなことは気になさらなくていいのに。では、こうしましょう」


 フェリックスは上着をいで座席にく。

 ルシアはわずかに眼を見開いたあと、フェリックスのこうに甘えた。


「貴方はとても優しい人ね」


 座席に座ったルシアがフェリックスをめれば、フェリックスはにっと笑う。


「それはルシア王女殿下が優しくしたいと思わせてくれるからですよ。……あの妹姫さまたちに優しくしたいと思います?」

「……それはとても難しいわね」


 ルシアはフェリックスの言葉に同意する。


「ねぇ……もう一度、黄色のドレスの話をしてくれない? 今なら楽しい話だと思える気がするの」

もちろんです」


 フェリックスとルシアは、顔を見合わせて笑う。

 出会ったばかりだけれど、ずっと昔から友達だったような気がしてきた。

 フェリックスの姉マーガレットは、フェリックスが言っていた通りにルシアを歓迎してくれる。とつぜんの訪問だったのに、とても労ってくれた。


「急いで私のドレスをルシア王女殿下に合わせていくつか手直しさせますわ」

「ありがとう。でも、と王宮に帰るときのドレスを貸してもらえたらじゅうぶんよ」


 ルシアはそこまでご厚意に甘えるわけにはいかないと断ったけれど、マーガレットは首を横に振る。


「私が貸し出したドレスであれば、王女殿下たちは切り刻むことを躊躇うでしょう。新しいドレスを用意するまで、私のもので我慢してください」


 マーガレットは優しく微笑んだあと、フェリックスに視線を向けた。


「フェリックス。明日は王女殿下を仕立て屋までエスコートしなさい。本当は仕立て屋を王宮に呼んだ方がいいけれど、余計なことをされるかもしれないし……」


 困ったわね、とマーガレットは頰に手を当てる。

 ルシアはマーガレットの反応から、妹たちの社交界での評判をなんとなく察した。


「王女殿下はゆっくりお休みになってください。なにかあったら遠慮なく申しつけてくださいね」

「ありがとう。世話になるわ」


 ルシアは客間に案内してもらう。

 マーガレットの侍女に着替えを手伝ってもらったあと、大きな窓を開けて外を見た。


「…………」


 色々なことがあった一日だ。

 嬉しいことも、うんざりすることも、なにもかもたくさんあった。


「アレク……。貴方がいたら、今日の出来事を笑いながら聞いてくれたでしょうね」


 病弱でなかなか外出できないアレクのために、ルシアは色々なことをまくらもとで聞かせた。

 きっと今日の話を聞かせることになったら、アレクサンドルが寝るまでに終わらなかっただろう。


(どうして幸せは続かないのかしら)


 ルシアは失ったもののことをつい考えてしまう。すると、コンという小さな音が聞こえた気がした。なんの音だろうかとあちこちを見てみたら、地上にいるフェリックスがこちらに手を振っている。


「おやすみなさい、フェリックス」


 ルシアが手を振り返せば、フェリックスはなぜかルシアを指差す。

 どういうことだろうかとルシアが首を傾げているうちに、なんとフェリックスはかべを登ってきた。あっという間に二階の窓に辿たどいたフェリックスは、驚いているルシアに笑いかける。


「危ないわ……!」


 フェリックスが落ちるのではないかと、ルシアは慌ててフェリックスの腕をつかんで支え

ようとした。

 しかし、フェリックスは大丈夫だと笑い、まどわくに座る。


「どうしてこんなことを……」

「なんだかむなさわぎがしたんですよ」

「胸騒ぎ?」


 ルシアが瞬きをしたら、フェリックスの指がルシアの頰に触れた。


「表情が暗かったように思えたんです」


 ルシアは、フェリックスの言葉に驚いてしまう。

 フェリックスは、ルシアを心配したからここまで登ってきてくれたのだ。


(信じられない……)


 表情が暗かったというたったそれだけのことで、こんなにも危ないことを平気でしてくれる人がいる。


 ルシアにとって、これはあまりにもしょうげきてきな出来事だった。


(今までそんなことをしてくれた人なんて……)


 ルシアはフェリックスだけだと心の中でつぶやこうとし、すぐにそうではないと気づく。

 心から心配してくれた人は、フェリックス以外にもいた。

 亡き母も亡き乳母も祖父母も、ルシアを愛してくれた。心配してくれた。父だってこの命を守ろうとしてくれた。

 アルジェント王国に行ったら、アレクサンドルがいつだってルシアを気遣ってくれた。周りの人たちも優しかった。


「私……、……」


 ルシアは瞬きを一回する。それから深呼吸を一回した。そして、口を開く。


「……窓の外を見ながら、自分のことを可哀想だと思っていたのよ」


 ルシアが苦笑したら、フェリックスは息を吞んだ。


「でも、幸せなことも沢山あったわ。たった今、そのことに気づいた」


 きっとルシアは『可哀想』なのだろう。

 しかし、同時に『幸せ』でもあったはずだ。

 ――そう。可哀想だという事実ばかりに気を取られるわけにはいかない。

 ルシアはフェリックスに微笑む。


「気づかせてくれたのは貴方よ、フェリックス。王子さまみたいに登ってきて心配してくれるから、私は幸せなお姫さまになってしまった」


 様々な人から受け取ってきた幸せを、なかったことにしたくない。

 この手にあるものを大事にすることで、亡くなった母や乳母、アレクサンドルがせいいっぱい生きていたことを示せるはずだ。


「だから私は大丈夫」


 ルシアは、フェリックスだけではなくて自分にもそう言い聞かせた。


(|辛《つら)いことが沢山あった。でもそれだけではない。……きっとみんなもそう)


 ルシア視点だと幸せそうにしている人ばかり眼に映るけれど、誰だって幸せなところだけを見せようとしているはずだ。

 父も母もアレクサンドルも、そしてここにいるフェリックスも、辛いことも幸せなことも味わっているだろう。


(可哀想なのは私だけではない)


 そんな当たり前のことに早くから気づける人もいれば、気づかない人もいる。


 当たり前のことに気づいた人は、助け合うことの大切さを実感して、自分から動こうとするのだろう。

 ――私もそうでありたい。

 フェリックスのように、誰かに手をさ)し|伸《のべられる人になって、誰かと助け合いたい。

 辛いことがあっても、助けてくれる人がいれば、乗り越えることもできるはずだ。


「私はもう大丈夫よ」


 ルシアはもう一度、自分に言い聞かせるのではなく、本当の気持ちで言う。

 しかし、フェリックスにはそう思えなかったらしい。


「……俺にとっては、今もまだ可哀想なお姫さまです。貴女は婚約者を失い、王宮で気の毒なことになった方ですよ。ゆっくり悲しんでください」


 フェリックスは優しい人だ。

 だからこそルシアは、心から大丈夫だと思えた。


「ありがとう。貴方のおかげで元気が出たわ」


 ルシアがフェリックスに正直な気持ちを伝えれば、フェリックスは息を吐く。


「無理はしないでくださいね。今はまだ可哀想なお姫さまでいいんです」

「そうね。今晩はそうしようかしら。……じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 フェリックスはルシアに挨拶をしたあと、窓から出ていく。

 ルシアは無事に地上へ降りたフェリックスを見てほっとしたあと、軽く手を振った。

 すると、フェリックスは手を振り返してくれる。


(私は可哀想だけれど、こんな風に幸せ者でもあるわ。だから、亡くなったアレクのことをじゅんすいに悲しみましょう。この悲しみを大事にしたいから)


 ルシアは夜空にまたたく星々をながめる。

 神の下へ向かったアレクサンドルの幸せを、ここから祈ろう。

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