第2話

 私がこの男、如月千尋を拾ったのは、もう半年くらいの前のことだ。いまだに鮮明に思い出せる。






 8月15日、蝉の鳴き声と暑さにうんざりするような日。


 終戦記念日ということもあり、あぁ、きっと戦時中も暑くて蝉が泣いていたんだろう...などと考えてどこかいつもより身にまとわりつく暑さにうんざりしていた。


 ガラガラとうるさいスーツケースの音と同時に小学校の時に行った広島で心の底から恐怖を感じたことを思い出す。今の日本であんな地獄はもうない。あってはならない。とか考えていたような気がする。


 京都人は第二次世界大戦も第一次もなかったことにするとか言うけどそんなのは嘘だ。応仁の乱こそ大して知らない。それよりもあの広島と長崎の恐怖は脳裏に直接経験していない私ですらこびりついて離れない。吐きそうなくらいに。


 夏の暑さに「水を」という悲痛な願いが絡みついてくるような気がして、さらに重苦しい気分になりながら歩く。


 今日の朝発った実家も私を重苦しくさせる原因のひとつだ。ため息でそれを流す。


 ったく、なぜ私はあんな実家を大切に思ってーーそろそろ一思いに縁を切ってもいいんじゃないかな?


 でもそうしたら育った家はどうなる?名前をつけてやった鯉は?あの思い出のアルバムは?


 全て蹂躙されるのだろうか。私が家に帰らないことで、かろうじて残っていた私の思い出が全て蹂躙されるのだろうか。


 ーーあの人たちはそれを辞さない人達だ。


 スーツケースをゴロゴロ引いて、そろそろ車輪の音と蝉の声で頭が狂うかもしれない、という時に私は家の近くの木陰で行き倒れている男性を見つけた。ここはそんなに人通りは多くない。なぜこんな場所で行き倒れているのか少々不思議ではあった。トラブルの予感しかしない。


 少なくとも日向ぼっことかではないことだけはわかる。


 私は次の日も仕事だったので、ぶっちゃけさっさと家に帰って荷物を片付け、仕事の準備をしたかった。この重苦しい気分を早く家に帰って家事をして切り替えたかった。


 いやしかし、流石にこの炎天下の中見殺しにするのは目覚めが悪い。


 終戦記念日と言うこともあってたくさんの戦争のテレビを見たのも悪かった。今、生活に余裕があって、平和で、なぜ人助けすらしないのかと言う気分にさせてくる。豊かさを享受する冷たい現代人な気がしてしまう。


 とりあえず声をかけよう。放っておいたら死んでしまうかもしれない。まだ消極的とはいえ人殺しにはなりたくない。


「もし。」


 しゃがんで見ると男性の顔立ちや発汗が見えてきた。


 男性のまつ毛がぴくりと震えた。こんな時でなかったら長いまつげに見惚れていたかもしれない。白皙の美貌とか言うやつだ。


 顔を覚えるためにさぁっと全身に目を走らせ、特徴づけーーなくていい。この人は仕事相手でもなんでもない。ただの推定行き倒れだ。


「あ......。」


 男性がこちらを見た。どうやら意識ははっきりしている。


 助け起こしはしない。動かしてなんかあったら怖い。救急車が呼べるようにスマホに手をかけただけだ。


 会社のAED講習とか、応急処置の講習とかちゃんと受けといて本当によかった。わかるわけじゃないけどとりあえず今AEDがいらないことも急いで救急車を呼ばなくてもいいことはわかる。意識があるなら色々答えてもらってから救急車を呼んでも遅くない、と思いたい。


「大丈夫ですか?」


「ん......ぅん、大丈夫、です。多分熱中症、なんで。」


 うーん、熱中症は全然大丈な症状ではない。


 生きてもいるし、受け答えもできている。発汗や他の状態を見てもやっぱり救急車を呼ぶほどではなさそうだが、体を冷やして安静にするべきだろう。


 7119とかで聞いて見た方がいいのだろうか?なにせ人生で初めて倒れている人を見かけたので正直何をするのが正解かわからない。看護師さんとかに通りかかってほしい。切実に。


「タクシー呼びましょうか?」


 残念なことに私は、看護するためのものを何一つ持っていなかった。冷やしタオルくらいはハンカチで作れるかもしれないが、水も新幹線で飲み干したし、やっぱりお手上げだ。


「お金、ない...。」


 男性の見た目は私と同じかそれより年上。つまり社会人だ。大の大人がお金ないは少々情けない...というより他ないだろう。


 私は呆れると同時に、彼は何か事情持ちだろう、と判断した。


 お金を貸そうか。


 いくらくらい?帰ってこなくても許せる金額...3000円くらい?いや、もうちょっと?


 でもなぁ、私お金の貸し借り嫌いなんだよなぁ......この場合人命救助的なものに当たるんだろうか?彼の家までのタクシー代くらい、出してあげるべきかなぁ。


「タクシー呼んだら病院行くか、家まで、帰れますか?」


「家、ない。」


 はい事情持ちけってーい。家ないって。家ないって。え、どうしたらいいの?お金もお家もないのよね?え、この人今からどうすんの??


 じゃあ近くのネカフェか。私はスマホを取り出してネカフェをググろうとした。


 そういえば警察とかでお金借りれるって聞いたことあるしこの人もどうにかなるんじゃなかろうか。


「お願い、僕を拾ってください。料理洗濯掃除はできます。」


 男性は一言話すのもしんどそうに私に言った。だけどそこには子犬っぽさとか、むげにできないようなある種のオーラがあった。


 なるほど。家がないかなら誰かの家に転がり込めばいい。どこか納得できてしまった。それが見ず知らずにして通りがかりの私の家であることを除けば。


 あぁ、もう!


 私はこの時暑さと蝉の音にやられていた。間違いなくやられていた。


「変なことしたら追い出すからね!」


 まるで少し前に読んだ小説みたいな状況だ。その中では植物に詳しい男性が家に転がり込んでくるのである。


 なるほど。


 こう言うことがあるから小説になるのか。あの話は全くの創作ではなかったらしい。それとも私だけがこんな経験をしているのか?さもありなんーーと頷きかけて目の前の行き倒れに意識を戻した。ついつい考えてしまうのは悪い癖だ。


 まぁ、いい。


 現実問題、スーツケースを持ったまま、この男性を抱えるのは無理だろう。私はスーツケースの中身を思い浮かべた。うん、貴重品はない。服だって大して気に入ってない服ばっかりだし、実家に帰ったというのに帰りに持たされた土産なんて一つもない。


 スーツケースを木の下に置いて、気休め程度だけどネームタグを確認し、鍵も確認する。


 私は肩にかけていたポシェットを落ちないように斜め掛けして、彼の腕を肩に回した。


「頑張って歩いてください。目と鼻の先ですから。」


 想像よりも大柄だけど、体重はさほどない。抱え上げはできないが、半分引きずりながらなら動かせるし、本人が少しでも歩くなら家まで頑張れるだろう。


「いいんですか.........?」


「ええ、いいですよ...。」


 なんかもう諦めの境地だ。


 私だってこれでも成人した社会人だし、一人暮らしの家に病人とはいえ男を上げる危険性くらいは理解している。


 ただ、なんだかもういいやと思ってしまったのだ。


 こう...なんというか。


 自分を大切にするのに疲れたというか。ちょっと最近投げやりな気分になっていた。実家に帰って、それが一気に増してしまった。



 そしてそれと同じくらいに寂しくて。

仕事上何も関係のない誰かと雑談をしたくて。


 私はこの男を家にあげてしまった。




 思えばこの時から私はこの身に流れる角倉の血に支配されていたのかもしれない。

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