少女の選択

「それから、先輩は本当に部活に来なくなりました」


サッカー部のほうもマネージャー陣には言っていなかったようで、

辞めてしばらくはマネージャーである彼女も嘆いていた。


「ちゃんと有言実行タイプだった…」


カウンターに突っ伏したままくぐもった声で話す。

新しく淹れなおしてくれた紅茶は、もう随分前に飲み干していた。


「なんだか、素敵な青春譚を聞いたねぇ」


ふふっと楽しそうに笑う彼の髪が、月明かりにキラキラと輝く。


青春、かぁ。


「私は、ちゃんと青春出来てたんですかね」

「今の話を青春と呼ばずしてなんと言うんだい?ねぇ、紅さん」

「青春とは恋のことか?私には分からないな」

「僕らも青春する?まだ間に合うよ」

「遠慮する」


ばっさりと切り捨てられた彼は「ハッキリ言うなぁ」と声を落とした。


「私にも分かることは、今の話の中では娘はまだ死んでいないということだが、」


「何故ここにいる?」と透き通った声に問いかけられて、むくりと上半身を起こした。


「…落ちたみたいです」


規格外の神様たちに長々と話して聞かせているうちに、じわじわと記憶が蘇っていた。


「あぁ…失恋して身投げか」

「違います」


即座に否定した私を怪訝な顔が並んで見ている。

今の話のどこに私が失恋した描写があっただろうか。

あぁ、飽きて途中から聞いてなかったか?くそぅ。


「デッサン用の銅像を運んでたときに階段から足滑らせて落ちたんです」


ぼんやりしていたんだろう。

銅像で足元もよく見えないまま階段を下りていたら、踏み外した。

そして大きく宙を舞った、堀の深い外国の男の人の顔が降ってくるのを見ていた覚えがある。

そこでぷつんと記憶が途切れている、ということは、頭に激突でもしたんだろう。運悪く、角とかが。


「ただの阿呆か」


やれやれ、とカウンターに置いていた本を手に取りパラりと捲った彼女は、そのままゆらゆらとロッキングチェアに揺られ始めた。


…え、いやいや。待って。


「はい、最後に飲んでいきな」

「え、」


いつの間にか下げられていたティーカップの代わりに、湯気が立つ新しいカップがことりと置かれた。

銀色の髪を揺らしながら「僕のお手製紅茶なんてもう飲めないよ」と笑う。


「ありがとうございます…って、そうじゃなくて」

「なんだ娘、まだ何かあるのか」

「もうお話の続きはお腹いっぱいだよ?」


本から1ミリも目線を上げない彼女と、自身のお腹をさする彼。


「はじめからここに来た理由が分かっていれば、あんなに長い話聞かなくても済…話さなくても良かったな」

「時間、結構たっちゃったねぇ」


悪かったですね、話が長くて。尺の問題っすわ。


「やはり間違いだったな」

「まぁ、それならそれで良かったね」


もう終わりだ、終わり、とでも言うように2人で穏やかに会話しているところから察するに。

もしかして私、もう現世に帰ると思われてる?

間違えて落ちちゃっただけだから、さっさと戻るでしょ、てきな?

なんらなここまでの落ちに辿り着くまでが長すぎるとでも言いたげな。


「え、いや、私、まだ帰ると決めたわけじゃないんですけど」


そう呟けば、目の前の神々しいお二方は同時にこちらを見とめて、分かりやすく顔を顰めた。


「何故だ、ここに残る理由がないではないか」

「帰ってその先輩とやらと青春の続きをしておいで」


言葉の節々から”シッシッ”と追い払おうとしている気がするのは何故だろうか。


「いや、だって…」


つまらないんだもの。毎日が。


何度、美術室の扉を開けても、そこに先輩の姿はないし、

どれほど綺麗な色が出来ても、どれほどよく描けた作品が出来上がっても、それを共有したい先輩は横に居ないし、

下校時間ぎりぎりまで残っていても、美術室の扉を開けて「時間だよ!」と言ってくれる先輩は来ないし、

窓からグラウンドを見下ろしても、走り回る運動部の中に先輩の姿は見えないし、

「おーい!」と大きく手を振る姿も見えない。


見かけるのは、放課後すぐに校門を出ていく後ろ姿ばかり。



今までずっと、1人で描いてきた。

家でも学校でも、1人のほうが集中できたし、毎日自由に絵と向き合うのが楽しかった。

1人でも鮮やかな色彩で目の前のキャンバスを埋められた。


それなのに、先輩が来なくなってから、描きたい衝動に駆られることもなくなって、

毎日真っ白なキャンバスと向かい合うまま時間が過ぎて、

筆を持つ手はぽとりと膝の上に落ちたまま。


こんなはずじゃなかったのに。

今までみたいに絵を描きたいだけなのに。

ただ描きたいだけなのに。


描けなくなってしまった。それが、苦しくて堪らない。



そんな毎日を過ごしていたら、久しぶりに描きたいと思える人たちに出会った。

画材がないことをこんなに悔やんだのはいつぶりか。


ここに居れば、この美しい神様と一緒にいれば、私はまた絵が描ける。

私を取り戻せる。

それならばもういっそ、このまま――……



「なんだ娘、答えは出ているではないか」



凛とした透き通る声が、鼓膜を優しく揺らした。



「だから言ったでしょ?青春の続き、しておいでって」



温かい声音が、包むように響いた。



顔を上げれば、すべてを見透かすような漆黒の瞳とぶつかって、それは柔らかく細められていた。

赤い唇がゆるりと弧を描く様は、やはり息を呑むほど美しい。

そんな彼女の傍らに立つ、長身の彼もまた、視線がぶつかるとふわりと笑んだ。



「よほど、その先輩とやらを好いておるのだな」

「…へ?」


ぽかんと口を開けると「おまえ、鈍感だな」と少々呆れたような顔をされた。

まさか死にかけてまでそれを言われるとは。


「絵が描けなくなった原因なぞ、その先輩とやらが好きだからだろうに」

「・・・」


先輩が好きだから…?


「いや、絵が描けなくなったのと、私が先輩を好きなことになんの関係が…」


だって、絵は1人で描けるもの。

自分が素敵だと思った風景や、描きたいと思ったものは先輩がいなくても描ける。

今まで私の世界は心トキメク被写体で溢れかえっていたはずなのに、今はまるで世界から色が無くなったようで。

私、どんな風景に心躍らせていたっけ。


そんなことを考えている自分が嫌になる。


「なぜ自分で話していて答えに辿り着かない」なんて、溜め息をつく彼女に、

「紅さんでさえ気づいたのにね」と茶化すような突っ込みが横から入っていたが、もれなくスルーされていた。


「でも、先輩が好きなことは認めるんだね?」


ふいに訊かれたそれに、じわじわと頬が熱くなる。


「い、や、好きっていうか、その、」

「うんうん、照れるよね。僕も紅さんが好きなんだけど」

「あ、やっぱりそうなんですか」


なんとなくそんな気はしていたけれど、どうにも彼女は眼中にないといった様子だったから。

現にそう言われた今も、彼女は興味なしと言いたげに静かに紅茶を飲んでいる。

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