少女の選択

そんな濃厚な夏休み明けから数日。


「あのさー」


美術室で文化祭用の制作をしていた先輩が手を止めずに私を呼んだ。


「はい?」

「なんかあった?クラスで」

「…?」


どういうことだろう?と無言で続きを促せば、一瞬こちらに視線をやった彼は「う~ん」と唸る。


「気のせいかもしれないんだけど、最近やけに視線を感じるというか」

「はぁ…」

「見られてるというか」


見られるのは今に始まったことでもないと思うけれど。

ストーカー被害にでもあってるのか?

まぁ先輩、無自覚天然タラシ爽やかフレッシュ君だもんなぁ。


「なんか、うん…」

「ストーカー被害の相談ですか?」

「違う違う!あ!やっちゃった!」


筆を持った手をぶんぶん振るものだから、キャンバスにピッと絵の具が飛んでしまった。

「あとで色重ねよー」と呟いて、彼は一旦筆を置く。


「廊下ですれ違うときとか、そっちの教室の前通ったときとか、やたらとクラスの人たちが俺見てくるんだよね」

「私のクラスの人だけですか?」

「そー」


…まぁ、心当たりがまったくないと言ったら嘘になろう。

夏休み明け初日のプチ修羅場騒動は、勝手に彼を巻き添えにしていた。

そしてきっと彼に関わる内容がクラス会議中に話題に出たのではないだろうか?

口外禁止令が出されたようで、1人外れていた私は内容を知らないけれど。


「あったといえばありましたけど」

「何があったの?」

「私も知らないんですよね」

「同じクラスなのに?」

「同じクラスなのに」


今の話を聞く限り、彼女からも何も聞いてなさそうだ。

サッカー部は新学期が始まってからはまだ一度も練習していないし、会っていないんだろう。


「見られるってどういう感じなんですか?睨まれるてきな?」

「いや、どっちかっていうと哀れむような」

「可哀相な人だと思わてるんですかね」

「なんで?」

「私に聞かれても」


彼女に聞いたほうが早いのでは?

サッカー部もそろそろ再開するだろうし。


「気のせいかなぁ」


首を傾げながら再び筆をとった彼はパレットから色を掬い取った。


普段から見られていることに慣れてるはずの人がそう思うのなら、たぶんそうなんだろうけど。

残念ながら私には情報がない。


「そういえば、聞きましたよ」

「なにを?」

「…告白、断ったんですね」


話してもいいものか悩んだけれど、彼女もなんだか吹っ切れているようだったから。

吹っ切れているどころか、ぶっ飛んでしまったようだけれど。思考回路がおかしくなるほどに。


「あー…うん。なんかごめんね」

「なんで私に謝るんですか」

「いや、お友達のこと、応援してたでしょ?」


彼は申し訳なさそうに顔を逸らす。


「もちろん応援はしてましたけど、こればっかりはどうにもできないですからね」


人の気持ちは変えられない。

選ぶのは先輩だ。


「それに、先輩好きな子いるって聞いてたんで」

「あれも、今思えば無神経なこと言ったよなー」

「あの時はまだあの子の気持ちは知らなかったんですから、仕方ないですよ」


「そうなんだけどさ」なんて、彼はどこまでも人に優しい。


「まぁでも、彼女結構元気そうだったんで」

「あーうん、てかバレてたんだよね」

「なにがですか?」

「俺の好きな子」


…ん?


「お友達から何も聞いてない?」

「まったく」


そうなのだ。

あの日、あのあとすぐに先生が来てしまいゆっくり話す時間が取れていない。

放課後は私もすぐに美術室へ行ってしまうし、サッカー部もマネージャーは準備があるとかで選手より先に部活が始まっているらしかった。


「告白してくれたときに…って、これ俺から言うのもなんか違うよね」


言いかけてやめた彼は「本人から聞きなー」と話を切り上げた。


きっと2人の間になにかあったんだろう。

だから彼女は課外学習のことも知っていた…?

私の知らないところで何か面白いことが起きている気がする…


「それ文化祭に出すやつー?」


ひょいと私のキャンバスを覗き込む先輩。


「あ、いや、これは違います」

「なぁんだ。何出すの?」


違うと分かると身体をもとの位置に戻した彼は、自身の制作を進めながら問うてきた。


「夏休み前から描いてたやつですよ」

「もしかして完成したら見せてくれるって言ってたやつ?」

「そうです」


文化祭に出す作品。1年生は1枚と言われたときから決めていた。

あの日のキラキラした放課後の風景画。

心ときめく、ザ青春を切り取ったような1枚。


「え、もしかしてもう出来てる?」

「夏休み中に完成しました」

「見たい!!」


彼は勢いよくこちらへと身体を向けた。

またしても筆を持ったまま動いたものだから、ピッと絵の具が飛ぶ。


「うわぁ!ごめん!」


彼が飛ばした絵の具は見事に私の顔にヒット。

鮮やかなオレンジが頬にピトッとくっついた。


「…」


むぅ、と口をつぐみ頬を手の甲でぐに、と拭えば、

乾ききっていないそれは頬を滑るように薄く広がった。


「伸ばしてどうするの!」

「あれ、取れてないですか?」

「絵の具とったばっかのやつ!」

「ちょっ…」


ケラケラと笑う彼に「何してくれんだ」と眉根を寄せつつティッシュを探す。

少し離れた場所にあったそれは、画材を机に置いた彼が取りに行ってくれた。

ティッシュを数枚手にして戻ってくると、私の前で少し屈み、そしてそっと私の頬に手を添えた。


流れるような動作と今までにないほど近距離にある整った顔に、動けなくなる。


「ははっ、可愛いー」


目の前の奥二重がふわんと垂れて細くなる。


少し水を含んだティッシュがひんやりと優しく頬を撫でる。

添えられた手の平が熱い。


「取れたよ」


ゆるりと笑うその顔があまりにも。


「綺麗…」


衝動のままに、彼の顔に手を伸ばしていた。

輪郭をなぞるように目の前の頬にするりと指先で触れる。

途端、彼の目が大きく見開き、パッと離れてしまった。


「なに、どうしたの、今の反則でしょ」


ふいと顔を逸らし手で口元を隠すけれど、それは耳まで赤く染まっている。


宙に浮いたままの手。

この前も思った、描きたい衝動。


描きたい。

描きたい、けど、それよりも。


「…取れましたか?」

「え、あ、うん、取れたけど」

「ありがとうございます」

「えぇ!?」


「もう、なんか振り回されてるよね俺…」と呟く彼はへなへなとしゃがみ込む。

私は、自分の中に生まれた初めての感情に戸惑いながら、目の前にある描き途中の絵と向き合った。

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