第13話



「クラウス、『 賢者の書 』より知識を得たのち、貴方は即刻ルーベシランを去ると誓いました。必ずしもそれは、貴方の望みにかなった知識ではないかもしれません。しかし、古書を解読する者として、わたしにも責任があるのです。それに貴方は、はじめて会った日の夜に云いました。たとえわたしが貴方の願いを断ったとしても、ルーベシランに危害を加えることはしないと ―― 貴方を信じた、わたしを裏切るのですか」


 エリーゼの問いかけに、クラウスは全身をこわばらせた後、堅く握られた両手の拳を床につけ、はじめて会った夜のように、突然、ひざまずいた。


「クラウス?」


 困惑するエリーゼを前に、黒の王子は告げた。


「たとえ貴女に笑い飛ばされてもいい」


 熱を帯びた黒い瞳が、エリーゼを見上げる。


「クラウス・ライオネル・ナイト・オブ・フォーデンは、この身を焦がすほど、貴女に恋い焦がれています」


 ―― 恋焦がれています。


 切なげな男の言葉を、エリーゼは半分のぼせた頭で聞いていた。


 ライオネル帝国最強騎士団の師団長にして黒の王子。漆黒の髪と瞳はめずらしいが、その容姿は決して悪くない。そんな大国の王子がひざまずき、小国の姫である自分に愛をうている。


 どうして、こうなった?


 急展開に、思考が追いつかない。頭が沸いたような、こんな状況でなければ、もう少しまともに相手の真意を探れるのに。


 今は、まったくダメ。呼吸が荒くなり、返事すらできない。


『 賢者の書 』を手にしたまま、ぐったりするエリーゼを痛ましい目で見つめたクラウスは、ふところから小さな紙包みを取り出した。


「お許しください、姫君。先ほどの茶に、少量のしびれ薬を混入しました。おそらく貴女は、薬物に免疫がない。そのため、少々効き過ぎているようだ」


 薬!!


 自身の躰に起きている異変の正体がわかり、エリーゼの目に激しい怒りが浮かび上がった。


「貴女の了承を得ることなく、ブルゴーヌにお連れすることをお許しください。ブルゴーヌ王国の陛下には、内密に姫君の入国許可はとってあります」


 なんて、準備のいいことかしら!


 数分前、なんの疑いもなく、クラウスの淹れた茶を口にした自分を張り倒してやりたい。ここでようやく、エリーゼはクラウスの真の目的を理解した。


 ブルゴーヌ王国とライオネル帝国は、すでに手を組んでいるのだ。魔竜を解き放つという両国の目的のために、『賢者の書』とそれを解読できる者を連れ去ることこそが、クラウスの役目。


 卑怯にも、痺れ薬まで用意して ――


 不覚としか云いようがなかった。もっと慎重に、もっと用心深く、この王子の動向を探るべきだったのだ。


 上昇する身体の熱と、さらに襲ってきた倦怠感。感覚のなくなってきた腕で上半身を支えきれず、エリーゼは開かれたままの『 賢者の書 』に突っ伏した。


「姫君!」


 クラウスの焦った声が聞こえる。


「お身体がキツイのですか? すぐに塔を降りましょう。レオンが薬を中和する薬草を持っています。今しばらくご辛抱ください……くそっ、こんなことなら持っていれば良かった」


 腹立たし気な言葉を云いつつ、立ち上がったクラウスの手がエリーゼに伸びる。


 ―― 冗談じゃないわ。


「さ、さわらないで……」


 なんとか顔を上げたエリーゼから、全身全霊で放たれる拒絶の意に、クラウスの手が止まった。それを見逃すことなく、エリーゼは唇を噛む。


『賢者の書』の開かれた頁には、古の魔法陣が描かれている。唇から滴る血が魔法陣に染み込むのを確認して、


「……Æä--æǑ--!」


 エリーゼは躊躇なく、古語を唱えた。


 全身に痺れ薬がまわる前に、どうにか唱えたいにしえの魔法。その瞬間、アルトーの書斎はエメラルドグリーンの光に包まれた。


 驚愕するクラウスの顔を見て、


 ―― いい気味だわ


 わずかな笑みを浮かべたエリーゼ。


 わたしも油断したけど、貴方だって最後に気を抜いたのよ。ここが、わたしの領域だということを忘れてもらっては困る。


 エメラルドグリーンの光がクラウスを包み込むように収縮をはじめた。光は渦となりクラウスを戒める緑の鎖となった。何事かを叫ぶクラウスの足元に、鎖が緑の蔦のように伸びて新たな魔法陣を形成していく。


「引き分けね」


 エリーゼの言葉が聞こえたかどうか、完成した魔法陣の中にクラウスは消えた。


 静寂が訪れる。


 数秒後 ――


 塔の外でエメラルドグリーンの閃光を感じたエリーゼは、


「ああ、リアに知らせないと……」


 そのまま意識を手放した。




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