6-4.彼は、恋した人は。

 それはとこしえの闇であった。


 それはとこしえの夜であった。


 冷え冷えとした空間の中、さ迷う。


 暗闇に吹きすさぶ風が魂を抉り取る。


 とこしえの宵闇に浮遊しながら、違和感と絶対的な喪失感でヴィクリアは目を開けた。


 視界の先、オルニーイがいる。キツァンがいる。ケルベロスも、いる。


 彼らの様子はそれぞれで、違う。


 鉤爪を構えたままのオルニーイはどこか焦燥しており、一歩後退るキツァンの眼差しはそれでも厳しい。ケルベロスは牙を剥きだし、歓喜と愉悦をあらわにしていた。


『んん』


 声が上手く出せなかった。いや、正確には出ている。出ているが、口が開いていない。


『どうしたのかな、私』


 放った声音が暗闇の中に響き渡り、こだましては溶け消える。


 空中に浮いている――それでいて湖の中で寝そべっている感覚もする。どこかから吹く風に肌を撫でられるつど、大切なものが欠けていく気がした。


『やだ』


 身を丸める。これ以上、自分の中から何も失われないように。取られまいとするように。


 だが、全身に力をこめてあらがうつど、風は冷たさを増して、奪取という爪痕つめあとを立てていく。


 ――虚言きょげんだ。


 オルニーイの大きい声が不意に、浮かんだ。


 ――偽りだ。


 必死な形相ぎょうそうで、戦いのさなかにかけてくれた言葉。


『そうじゃない』


 唇を噛みしめ、闇の中にたゆたいながら、ヴィクリアは頭を振った。


 否定の言葉が欲しいわけじゃない。慰めのセリフもいらない。


 では、一体何を求めているのだろう。自分でもほとんどわからない。だが大切な自分を守るには、もっと違う別のものが必要な気がした。


 言語化できないことが歯痒く、膝を抱えたまま顔を上げ、オルニーイを見る。


「ヴィクリア……」


 はっきりと声が聞こえた。痛ましそうにこちらを見る彼の右腕からは、血が流れている。


 自分が流血させたのだ、と意識した瞬間、よりいっそう強い風が胸を吹き抜けていく。またもや絶対的な喪失が心身を襲う。


 吐き気の前にも似た胃のむかつき――胸の不快感。風が襲いかかってくるたび、大事なものが持っていかれる。


「ユラン様! 今こそしんによみがえり、無念を晴らすとき」


 ケルベロスの弾んだ声音に、うるさい、と思う。


 いや、違う。うるさいと感じたのは、ヴィクリアではない。


『私の中にいる。誰か、私の中にいる』


 勝手に体が動く感覚がした。自分以外の誰かに、勝手に手を持ち上げられていく感覚。そのとおりに腕は動いた。


『動きたくない』


 そう強く願った、次の瞬間。


 手の全体が熱くなる。そのまま腕は勝手に動作をし、ケルベロスへ人差し指を突きつける形を取った。


 ついで、指先から出たのはあかい光。


 たがうことなく、禍々まがまがしい輝きがケルベロスの額三つを打ち抜いた。


 断末魔も何もなく、驚愕で目を見開いた魔獣がその場に崩れる。流れる血と脳漿のうしょう。オルニーイとキツァンが共に、凄惨せいさんな光景にか顔をしかめるのを確認した。


『やめて』


 静止の声を上げても、体は勝手に動くばかりだ。


 指を突き出したままの格好で、石畳の床にかかとを落とす。地面の感触はほとんどこちらに伝わってこない。


 それから幼子がはじめて歩くように、感覚を確かめるようにゆっくりと、一歩、進む。


「ヴィクリア、だめだ!」

『私じゃない』

「よけて下さい、ルイっ!」

『逃げて』


 二人の間を輝きが走る。左右に分かれた二人の間を。光は奥にあった半壊の女神像を一撃で破壊した。


 左に跳んだキツァンを見れば、彼はこれ以上なく苦しげな面持おももちで杖を構えている。


「こうなったら……!」

「だめだキツァン、あれはヴィクリアの体だっ。傷つけてしまう!」

「そうですよっ。でも殺す他ないじゃないですか、ユランが彼女のオドにいるとしたら!」

「あきらめたくないんだよ、わたしはっ!」

「あなたとここで二人、心中するなんてまっぴらなんですってばっ」

「それでもヴィクリアを見捨てるなどできない!」


 二人の応酬に、ぞわりと全身が総毛立つ。


 殺す。殺される。死ぬ。


 純粋な死への恐怖が、心をむしばんだ。インクが垂れて水を、紙を侵すように、意識が溶け消えていく感触。感覚は今までになく心地よかった。全身に悦楽えつらくが走る。


『……だめ』


 しかしそれを許してしまえば、身を委ねれば、自分は本当の意味で死ぬ。


 そう頭では思う。だが、次に脳裏へ浮かぶのは、オルニーイが楽しげに女性と歓談していた様子だ。


 その優しい温もりはきっと、自分のものではない。声も、笑顔も、自分のものではない。


『……それでもいい』


 しかしすぐに、見返りなんていらないと感じた。


 思いをくれた人。ひどいことを言ったのに助けに来てくれた人。恋を教えてくれた人。それだけで、彼を――思い人オルニーイの危機をどうにかしようと思うには、充分すぎる。


『次は私が、助けます』


 全身から力を抜き、風や闇の流れに身を任せた。たちまち黒いとばりが全身を覆う。二人の声が遠くなる。なんの音もしなくなる。


『もっと、奥』


 キツァンは言った。「ユランがオドにいるとしたら」と。


 何度も練習した、オドを扱うときのことを思い出す。流れに逆らうのではない。あくまでも奔流ほんりゅうへ沿うように意識を保つ。目をつむらないまま、駆け抜けてくる風に体をさらしながら。


 意識が暗く落ちる。無我に近い距離。自分を包み、空間を制するとこしえの夜にすら、なんの感情も抱かなくなったときだ。


 もやのようなものが、形を様々に変えて存在しているのを、見つけた。


 意識の奥、無意識の近くに、赤いかげろうがたゆたっている。小さいが恐ろしいほどの冷気を放つそれは、人や竜や動物――様々なものに変化していた。


『ユラン』


 声にならない呟きを漏らせば、警戒するようにかげろうが冷気を強める。ヴィクリアは手を伸ばす。かげろうに触れようとして。


 だが、冷気に弾かれ、指や手のひらがかじかむ。爪の先に霜が降りる。


 ――怖かった。


(よく覚えておきなさい、ヴィクリア)


 ――恐ろしかった。


(恐れとは見つめ直すべきもの)


 ――いやだった。


(受け入れることも撥ねつけることもできるけれど、人それぞれの影と同じ)


 ――ユランの娘だとか、にえだとか、そんなことより何よりも。


(影はついて回る。決して消えはしないなら、納得して怖がり、人生の友としなさい)


 醜い感情を持ってしまう自分が、あまりに矮小に思えて――


 シーテの教えを思い出し、逆風に耐えつつ手を伸ばす。霜はすでに腕へと回り、両腕の感覚がなくなっている。それでも、それでもと必死で歯を食いしばり、流していた意識を集中させた。


『私はもう、自分の心に怯えない』


 霜に、ひびが入る。


『だって大切な思いだから』


 霜が、めくれ上がる。


『醜くても情けなくても』


 剥がれた霜が舞い散る。


『この気持ちと一緒にいるって、決めたの』


 ――オルニーイさん。好きです。


 声にならない叫びを意識の中で爆発させた瞬間、手のひらが冷気をすり抜けた。


 乱暴なほど勢いよく、かげろうを掴む。


 刹那、全ての視界が晴れ、光が射しこむ。


 がくん、と全身が、ばねのように上部へと跳ね上がった。


 胸に抱いたかげろうが逃れようと暴れるが、ヴィクリアはそれを許さない。冷気と敵意、ほんの少しのひるみを全身に浴びても、なお。


 匂いがする。


 音が聞こえる。


 二人の様子が見える。


 自分の様子がわかる。


「あ」


 声が、出る。


 まばゆい光から視線を逸らさず、かげろうを胸元で受け止めた。


「オルニーイさん! 私抑えてます、ユランを抑えてます!」


 がくがく震える体を制御しつつ、ただ、叫ぶ。


「だから、今のうちに!」


 逃げてとも殺してともいわなかった。


 伝わるはずだ。


 ――彼は、恋した人は『英雄』として、ここにいるのだろうから。

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