第12話
風邪で家まで送ってもらった一件以来、伊藤さんは急激に僕に接近するようになった。彼女は僕に好意を持っていることを全然隠そうともしない。
背も胸も腰も小柄で地味だけど、すごく性格がよくてかわいらしい亜季と比べると、伊藤さんはスタイルが良くて目立つ顔立ちの美人だと言える。歩いているだけで周囲の男が振り返っている。
そんな伊藤さんから熱烈にアプローチされるとやっぱり男としては嫌な気はしない。強引な伊藤さんのアプローチを断り切れず、僕は、亜季が夜勤で朝まで帰ってこない日など、伊藤さんとお酒を飲みに行ったりして、夜遅くまでいっしょにいることがあった。伊藤さんは僕や亜季が暮らしているアパートとは違い、いわゆるマンションに住んでいた。
玄関から奥には住人の許可がないと入れない仕組みで、エレベーターに乗ると、伊藤さんの部屋は最上階の6階にあった。窓から見る夜景は日頃僕たちが生活している街とは思えないくらい美しい。
その日もお酒を飲んで遅くなった僕は、誘われるまま伊藤さんのマンションに行き、彼女の部屋で体を重ねた。その日、亜季は深夜勤で翌朝の9時頃まで帰宅しないことを知っていた。
それからの僕は亜季の夜勤の日を見計らって、ちょっと友達と飲みに行くから遅くなる、と連絡を入れては伊藤さんのマンションで朝まで逢瀬を楽しむようになった。
伊藤さんの体は見た目通り、形よく盛り上がった柔らかい胸、細く縊れたウエスト、それに対抗するように逞しく張り詰めたお尻、そしてそれらを結ぶ魅力的なラインが男の性欲を否応なくそそる。
僕は初めて亜季を抱いて女の体を知ったときのように新鮮な気持ちで伊藤さんの体を激しく貪った。僕の愛撫に応えるようになまめかしく蠢く伊藤さんの体や、悩ましく漏れる声がさらに男の欲望を刺激する。いつもおとなしく抱かれる亜季とは違い、男の凶暴な本性が引っ張り出されるような伊藤さんとのセックスに僕は深く引き込まれて行った。いつに間にか僕は伊藤さんの部屋に入り浸り、自分のアパートには戻らなくなっていた。
亜季からスマホに何回かメールの着信があった。電話のコールも何回かあったが僕はそれらを全部無視した。その年のクリスマスは結局伊藤さんと2人で過ごした。
亜季のことが嫌いになったわけではもちろん、ない。伊藤さんへの気持ちは亜季に対するそれとは少し違うような気がしたが、亜季よりも魅力的な女性に出会ってしまっただけだ、と僕は自分に言い聞かせた。そしてそんな自分に何の疑いもなく納得していたのだ。
年が明け、春が来て、夏が過ぎ、秋も深まってきた頃。あれから僕は亜季と顔を合わせていない。そもそも合わせる顔がない。スマホで連絡すらとっていない。
その頃になって僕は無性に亜季に会いたくなっていた。伊藤さんとの同棲生活は甘くて楽しかった。けれど僕と亜季の間にあったあの心に沁みるような幸福感が欠けていることに気が付き始めていた。あの気持ちはたぶん「愛」だった。確かにあの頃、僕は亜季を愛していたし亜季も僕を愛してくれた。そんな僕の心の変化を伊藤さんは敏感に感じ取ったようだった。
「別れようか」
ある日唐突に伊藤さんは僕にそう言った。そう言われても別にショックは受けなかった。その日のうちに荷物をまとめて、僕は1年近く空けていた自分のアパートの部屋に戻った。
亜季はどうしているだろう。もう新しい彼氏ができちゃっただろうか。もしまだ1人だったら、どんなことをしてでも謝って、また昔のように付き合いたい。亜季は許してくれるだろうか。いくらなんでもそれは虫が良すぎるか。
僕はそっと亜季のアパートを訪ねて行った。この時間に亜季がいるかどうかは分からない。遅番や夜勤だったらまだ部屋で眠っているかもしれない。僕はほぼ1年ぶりに亜季の部屋の前に立って……愕然とした。「並河」と書いた表札がなくなっている。ドアをノックしたが返事はなかった。ドアノブを回すと鍵は掛かっておらずドアは開いた。部屋の中は空っぽだった。
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