第10話

 夏。学生には長期の夏休みがあるが、仕事をしている彼女は連続した休みをとることが結構難しいらしい。義務として与えられる6日間の夏季休暇も、3日づつ2回に分けてどうにかとることができた。

「どっか旅行にでも行こうか?」

「ううん。3日くらいじゃ行って帰るだけで疲れちゃう。近場で遊ぼうよ」

 と言うことでプールに行くことになった。

 彼女の水着姿を見るのは初めてだ。青地に白い水玉模様のビキニを着て更衣室からプールサイドへ出て来た彼女は、水着になってもやっぱり小柄だった。あたり前だけど。当然、胸も腰も小柄だった。知ってるけど。

 彼女は僕の腕の中にすっぽりと納まってしまう。そんな彼女がかわいくて、愛おしくて、そしてふっと居なくなってしまいそうな気がしてちょっと怖かった。

 彼女はじっと見つめる僕の視線に困ったように両腕で胸を隠すようにしてもじもじした。

「何か……変、かな?」

「……小柄だね」

「そんなん当たり前やん!ほかに言うことないの?」と膨れる。

「うそうそ。似合ってる。すごくかわいい!」

 僕がそう言うと、ほっとしたようにやっと笑顔になった。

「行こ」と言って僕の手をとると、流れるプールに向かって走り出す。

 2日目は僕の部屋のカーテンを買いに行った。僕の部屋のカーテンは分厚い冬物で、づっと気になっていたらしい。夏らしい薄いレースのカーテンを買った。

 3日目は2人で僕の部屋のパソコンでネットの映画を見て過ごした。古い映画で『ある愛の歌』、原題は『Love Story』。彼女はどうしてもこれが見たいと言う。

 名門大学に通う金持ちの家の息子と大学図書館で働くつつましい生活の娘の恋物語。男性側の両親に反対されて家を出た男は、彼女と2人だけでひっそりと結婚式を挙げる。貧しくても幸せに暮らす2人。でもそんな幸せも長くは続かない。間もなく彼女は白血病に罹って命を落とす。

「白血病なんて今なら助かるのに……」

 彼女はそう呟きながら号泣していた。僕は彼女の肩を抱いてティッシュで頬を拭いてあげながらそっとキスをした。

 

 秋。僕の通う明桜大学の構内には『恋人たちの小道』というところがある。道の両側にずらりと並んだ銀杏の並木が続いている幅3mほどの地道で、ところどころに設置された金属製の古風なベンチにはその名の通り恋人同士と思われるカップルが座って楽し気に話をしたり、手を繋いだり、べったりともたれ合ったりして思い思いの時間お過ごしている姿が見られる。この時期、銀杏は黄金色に紅葉して小道にも葉を落としているから、秋の日差しで周囲がすべて黄金色に輝いているような幻想的な風景になる。

 その存在は僕も当然知っていた。そして一度ここに亜季と2人で座って過ごしたいと以前から考えていた。だから亜季が休日のある日、わざわざ大学に2人でやって来た。僕は亜季が作ってくれたサンドイッチと温かい紅茶を淹れたポットの入ったトートバッグを肩から下げている。空いているベンチを見つけて僕たちは腰を下ろした。

「休みの日まで病院の近くまで来なくても」って最初は渋っていた亜季も、美しく黄金色に輝くその小道を2人で手を繋いで歩いているうちにすっかりご機嫌は治ったらしい。

 嬉しそうにバスケットに入ったサンドイッチを広げ、僕に温かい紅茶を注いだカップを渡してくれた。特に大した話はしなかったけど秋の日差しを浴びて美しく輝く『恋人たちの小道』を見ているだけで十分幸せな気持ちになる。

「はい、あーん」

 ふざけて亜季が僕の口元にサンドイッチを差し出してくる。僕は、

「あむ!」っと勢いよく噛みつく。それを見て亜季がクスクスと笑う。


 冬。クリスマス前の12月。僕は大風邪をひいた。その日彼女は遅番だったので、寝込んでいた僕の部屋にやって来たのは午後9時をだいぶ回った頃だった。熱を計ったり、水枕の氷を入れ替えたり、おでこに冷たいタオルを乗せたり、食欲のない僕のために台所でおかゆを作ってくれたり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

「うーん」

 僕の体温計を見ながら彼女が唸っている。只今の僕の体温は38度9分。もうちょっとで39度に達する。

「熱って夜に上がって朝に下がるんだよね」

「ふーん……」

「まだ、もうちょっと上がるかもね」

「……」

「大丈夫だよ。今夜は私がずっと付いててあげるから」

「亜季だって明日仕事だろ。無理すんなよ。それに亜季に感染しちゃったら大変だし」

 熱のせいでちょっと心細い。本心では亜季に側にいて欲しいのだが、子供じゃあるまいし、そんな我儘を口に出して言う訳にはいかない。

「あっそ。じゃ帰る」

「え?」

 思わず枕から頭を持ち上げて亜季の顔を見てしまった。おでこのタオルがづり落ちる。

「あはは、うそうそ。けんちゃんったら本気にしたんだ」

「げふぉ!病人をからかうなよ」

「お風呂に入ってくるね」

 彼女が浴室を使う音を聞きながら僕はうとうとしていた。お風呂から出てパジャマに着替えた彼女は自分用の敷布団を僕の横に敷いてその上に寝転んだ。

 彼女の手の平が僕のおでこに触れる。お風呂上りの彼女の手は温かかった。ほんのりとシャンプーの香が鼻孔を刺激する。熱があるくせに彼女を抱きたいという欲求が沸き起こる。ダメダメ、風邪を感染しちゃうだろ。それにこんな弱った体でセックスしたらますます弱って風邪が悪化しそうだし。そう自分に言い聞かせて熱くなった体を宥める。

 そんな僕の心を知るはずもなく、子供をあやすように彼女は僕の胸のあたりを布団の上からトントンと叩いている。

「ねーむれー、ねーむれー、母の胸にー……」

 ああ、シューベルトの子守歌だ。彼女のささやくような優しい歌声を聴きながら僕は安らかな眠りに落ちた。



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