第6話

 明桜大学医学部の入学試験が終わった2日後、僕は彼女との約束の店へ浮き浮きした気分で向かっていた。自転車でも行けない距離ではなかったが、食後にどこか別の店にも行くかもしれないと考え、公共交通機関を利用することにした。間が一日あってよかった。デートなんてしたことがない僕はおしゃれな服なんて全然持っていなかった、というか高校卒業以来服を買ったことが一度もなかった。今日は昨日一日かけて一生懸命に選んだ新品の洋服を身に着けている。あまりぴっしりしていると新品とばれてしまうので一回洗濯したくらい気を使った。


 彼女が指定したイタリアンのお店『ぼろーにあ』には30分前に着いた。当然ながら彼女はまだ来ていない。ウエイターに予約している旨と彼女の名前を告げると、壁際の2人掛けの席に案内された。テーブルの上にはローソク式のランプが置かれている。夕方になって薄暗くなった店内、ローソクランプの明かりが届く範囲は狭い。その明かりで灯された2人だけの世界。小さなテーブルを挟んで見つめ合う僕と彼女。そんな妄想を描いて、わくわく、それ以上にどきどきと心臓が今から高鳴ってくる。


 僕が座った席からは窓越しに往来を行き来する人が見える。約束の5分前、入口に向かって店の前を早足で歩く彼女の姿が窓越しに見えた。間もなく店の扉が開いて彼女が店内に姿を見せる。彼女を見つけたウエイターが対応に出る。僕に気づいた彼女がこちらに向かって小さく手を振る。僕も手を振って答える。

 今日の彼女は相変わらず小柄だけど、それを隠そうともしない踵の低い靴。少しダボついたパンツ姿はふわりと下半身を包んで、痩せっぽちの彼女を魅力的に見せている。上半身も余裕のある白地のブラウスで、目立たないがあちこちにさり気なくフリルがあしらわれている。肩にやっと届くくらいの髪は後ろに束ねて菊の模様のバレッタで纏めている。薄っすらと化粧もしているらしく、つやつやと光る唇がやけに艶っぽい。


「ごめん。待たせちゃったかな」

 笑顔でそういう彼女がかわいい。つい顔がにやける。彼女は少し荒く息をしながら僕の向かいの席に腰を下ろし、持っていたバッグをテーブル下の物入れに入れた。

 女性と長らく話したことがない僕は昨日一日ネットで女の子の好きそうな今どきの話題を収集して書き留めたメモをこっそりズボンの尻ポケットに忍ばせていた。スマホに書き込んでもよかったのだが、二人きりの時にスマホをいじるのは失礼な気がして嫌だったのだ。僕だってデートしているとき女性にスマホをいじられたらいい感じがしないから。

「全然。ちょっと早めに来て店内の雰囲気を楽しんでただけ」

「そうなんだ。中山く……けんちゃん」

 昔はずっとそう呼ばれても何とも思わなかったのに、今はやたらとこそばゆくて嬉しい。

「お腹すいてる?何食べようか」

 彼女はそう言うとメニューを取って僕の方に向けて広げてくれた。ああ、こういうことは男である僕がしないといけないことだよな……

 正直、メニューを見てもあまりよく分からなかった。パスタとかピッツァは分かるんだけど、こんなに種類があるとは思わなかった。

 そんなことは悟られないようにさりげなく適当に僕はメニューからカルボナーラのパスタとマルゲリータのピッツァを、そして食後はホットコーヒーを選んだ。

「そっか。けんちゃんがそれ注文するんだったら私は……帆立とあさりのスープパスタ、ベーコンときのこのトマトソースのピッツァ、それからシーザーサラダとガーリックトースト。それから飲み物はオレンジジュースにしよ」

「へえ、見た目によらず結構いっぱい食べるんだね」

「取りっこして食べたらいいかなって、えへへ」


 注文した料理が来るまでの間、僕は色々用意してきた話題を振った。まずはやっぱりこれまでの亜季のことを聞くのが当たり前だろう。

「最後に会ったの高校卒業のすぐ後の中学の同窓会の時だったよな。あれから亜季はどうしてたんだ?」

 亜季は氷の入ったグラスに口を付けってちょっとだけ飲んだ。

「私、普通の高校行かないで看護専門の高校に通ってたのね。それで准看護婦の資格取って、去年から明桜大学の付属病院で働いてるの」

 彼氏とか付き合ってるやつはいるのとか、一番聞きたいのはそこなんだけど、いきなりこのタイミングでは早すぎる。今日帰るまでにさらっと聞きたい。もし彼氏がいないなら俺と付き合ってくれないかとか言えたらいいんだけど。

「けんちゃんはどうしてたん?」

「俺なんかどうもしてねーよ。ずっと受験勉強ばっかりしてる。高校3年間とその後浪人で3年間。それだけ」

 本当にそれだけだ。なんてつまらない6年間だろう。それに比べて亜季は専門学校行って資格もとって就職して。確実に自分の人生を歩んでいる。

「ふーん、けんちゃんでもなかなか入れないんだね。医学部ってそんなに難しいんだ」

 彼女の中では僕は今でも勉強もスポーツも出来るかっこいい男の子のまんまなんだろう。



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