第3話
先にも書いたが僕の家は開業医でいわゆる町医者だ。自宅を改造、建て増しして診察室や待合室を作った小さな診療所で、入院設備や手術の設備はない。専門は内科、小児科だが軽い者なら外科的な治療もする。
医者といったら金持ちと思われるかもしれない。家計のことは母親が一手に管理しているから詳細は分からないが、うちは普通の一般家庭と大して変わらないと思う。だいたい、うちには車がない。往診する場合、父は自転車を使用するし、雨の場合は往診先から迎えが来るか、そうでなければタクシーを使う。往診のための交通費は貰わない。
父の趣味は庭いじりで、建屋が狭い割りに広い庭には四季折々の花が咲き、桜、梅、つつじ、木蓮、百日紅などの木々があり、そのすべてを父が一人で世話している。梅などは毎年初夏になるとみっしりと実をつけるから、その収穫は僕や兄の仕事だったが、それは結構楽しいものだった。兄が家を出て、僕が受験勉強で忙しくなってからは、たぶん母一人で収穫しているのだろう。枝の高いところの実は採れないからそのまま地面に落ちているのを見かける。
僕の家は郊外にあって、畑や山林、竹藪が未だに散在する土地柄で、ご近所と言ってもすぐ隣に家が隣接していることはなかった。家自体が疎らだったから近所の子供と言ってもあまり多くなく、あの当時、僕の幼馴染といえば自分の兄を除けば、お寿司屋の中谷兄弟、僕と同い年の並河亜季、伊藤工務店の娘、全部で6人くらいのものだった。年齢順に並べると一番の年かさが僕の兄、次が1つ下の中谷兄、2つ離れて僕と亜季、1つ離れて中谷弟と伊藤工務店の娘、ということになる。
小さい頃はこの総勢6人で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり、縄跳びやゴム飛びなんかをして遊んだものだったが、年齢差と男女差のせいか、年かさの者から順に離れて行って、段々といっしょに遊ばなくなった。
僕と亜季は、家から一番近くにある公立の小学校、中学校に通っていたが、亜季は中学校を卒業すると同時にお父さんの転勤のため他所へ引っ越して行った。亜季のお父さんの仕事はあまりよく知らないが、どこかの工場の守衛で、一家は会社の社宅で暮らしていたと思う。
その頃にはお互いあまり顔を合わせることも、会話することも殆どなくなっていたから、亜季の一家が引っ越しの挨拶に我が家に来たことは後から聞いたし、どこに引っ越して行ったのかは知らない。お母さんは知っていたのかもしれないけど、僕は別に積極的に知りたいとも思わなかったし、亜季に対しても特に興味も未練も感じなかった。
亜季は小柄で、痩せっぽちで、勉強もあまりできる方ではなく、運動も苦手で、大人しくて、内気で、目立たなくて、正直僕の好みのタイプでは全然なかった。
中学3年生の同窓会があったのは僕が現役で医学部の入試に失敗して不合格通知を受け取った少し後の、春休みのことだった。できたらそこで国立大学医学部に合格したことをみんなに報告できたらどんなにか誇らしかったことだろう。
一次会は当時の担任の先生も招いていたから控えていたようだが、18歳になったばかりの僕らは2次会で居酒屋に繰り出した。その中には亜季もいた。久しぶりに見る彼女は18歳になっても昔と同じくやっぱり小柄で、痩せっぽちで、大人しくて、内気で、存在感の薄い女の子と言う印象だった。
初めて飲んだ酒で気分が高揚していたせいもあるんだろう、僕は医学部に入ったその先にあるであろう自分の輝かしい未来を大声で吹聴した。周囲のクラスメイトがドン引いて僕から距離を取るのが分かった。でもそんな中で亜季だけが僕の側に座って僕の与太話をにこにこしながらずっと聞いてくれた。僕はいい気になって亜季を相手に色々喋ったが、喋った内容についてはまったく覚えていない。
二次会が終了したときにはもう終電もない時間になっていた。亜季から聞いた現在の住所はかつて住んでいた場所からそんなには離れていない場所で、タクシーなら同じ方向だったので自然な流れで僕は亜季と同じタクシーの後部座席に乗り込んだ。タクシーの中では僕たちはほとんど何も話さなかった。もしかしたら亜季は眠っているのかと思い、そっと覗き見た彼女は、ただ黙ってタクシーの進行方向の闇をまっすぐに見つめていた。
亜季の家の付近でタクシーを降りた彼女に僕は「またな」って言ったと思う。でもその時もう二度と会うことはないだろうなとも思っていた。タクシーのドアが閉まる前に、亜季が何か言ったように思ったが声が小さくて聞き取れなかった。聞き返そうとしたがその瞬間にタクシーのドアが閉まってしまった。走り去るタクシーの後部座席から振り返ると、暗闇の中、外灯のわきに立ってこちらをじっと見送る彼女の姿が見えたが、それも小さくなってやがて暗闇の中に見えなくなった。
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