第3話 本当の名前

 本当はもう少し青年と話がしてみたかった。アルエットが頼んだわけではないのに軽々と木に登ってリボンを取ってくれ、必要以上に迫ってこない紳士的な態度に好感が持てた。


 ――どこの国の方なのかしら。


 屋敷まで帰ってくると、ベッドに倒れ込んでしばらく眠ってしまった。その後に自分がリボンしか手にしていないことに気がついたのだ。


「芝生に倒れた時に本をそこに置いてきてしまったんだわ」


 もう窓の外は夕闇が迫ってきていた、いくら安全な町でも夜に独り歩きをする自信はない。


 諦めて翌日公園に行くと、同じ場所に本はあった。それも、青年の手の中に。


「あっ、その本――」


「昨日忘れていっただろう」


 ベンチに座っていた青年はアルエットを見ると微笑んだ。


「ここにいればまた君に会えると思って」


 図書館のラベルが貼ってあるのだから、すぐそこへ届けることもできたはずだ。それなのに青年はアルエットを待っていてくれた。その事実が自然と彼女の頬を色づかせた。


「ありがとうございます。あの、隣に座っても?」


 立ち上がらない彼におずおずと尋ねると、頷いてベンチを少し空けてくれたので、ドキドキしながら隣に腰かける。


「髪を結ぶとそんな感じなのだな。よく似合っている」


 今日は外れないようにきつく結んできたリボンに、早速青年が気づいてくれたのが嬉しかった。


「こうしていないとお姉様に叱られるから」


「なぜ?」


「……家族の中で私だけなんです、こんな汚い髪色は。みんな綺麗な金色なのに。だから、みっともないと言われて……」


 小さい頃は鋏で切られたこともあった。乳母がかばって止めさせてくれたものの、それがきっかけで乳母は城を追い出されてしまった。


「私は生まれてくるべきではありませんでした――」


 個人的な話はしない方がいいのだとアルエットは思ったが、話し始めると止まらなくなった。彼が静かに話を聞いてくれるのもあったし、まったく事情を知らない相手の方が話しやすかった。きっともう会うこともないだろうから。


 国や家の名前を出さなければただのみじめな令嬢の愚痴だと思って聞き流してくれるだろう。


 姉や義母を中心として虐げられてきたこと、これからもどうなるのかわからないことなど話してしまってから、こんな話をして彼が不快な気分になっていないか不安になった。


「それで君はもう三か月もここへいるのか」


 一息つくと、青年が相槌を打ってくれた。


「はい。あなたはいつ頃ここへ?」


 聞いてから、アルエットはハッと口に手を当てた。


「すみません。ここではお互いのことを詮索しないんでしたね」


「……かまわない。君の話を聞いたのだから俺の話をしようか」


 青年はそう言って手を上げると、右目の眼帯を外してみせた。一瞬暗い眼窩を想像して身構えてしまったが、予想に反してそこには左目と変わらない艶のある瑠璃色の瞳があった。


「半年前に病気でこちらの視力を完全に失ってしまった。煩わしいので眼帯で塞いでいるが、なくても同じだ。光さえ見えない醜い目になってしまった」


 わずかに顔を歪める彼はとても悔しそうだった。


「醜くなんて……ありません。とても綺麗な目です」


「今でこそ痕は消えたが、赤く爛れて高熱も出たし、半月以上頭が割れるような痛みが続いた。誰も近寄ろうとしなかったよ」


 青年は自嘲気味に笑った。


「それで、体を休めるためにここへ来たんですか?」


「……まあ、そんなところだ。こちらへ来たのは三日前」


「また視えるようにはならないのですか?」


「ないらしい。だが、さすがに半年も経ったから慣れたが」


 再び眼帯をつけた青年は手にしていた本を開いた。


「片目は正常に機能している。なかなか面白かった」


「読んだんですか?」


 アルエットは目を丸くする。

 大衆で流行っている女性向けの恋愛小説なのだが、男性が読んでも面白いものなのだろうか。


「君も読んだら感想を聞いてみたい」


 それは、また会ってくれるということだろうか。

 アルエットの心臓が小さく跳ねた。嬉しくなって思わず顔が熱くなる。そんな風にアルエットに声をかけてくれる人間は今までいなかった。


「では、また明日もここに来ます」


 はにかんで答えたアルエットは、家に帰るなり部屋に閉じこもって夢中になって本を読んだ。そして約束通り、あの公園の一角で青年と会い、本の感想を述べあった。


 また別な日には彼が庭で摘んできたというアネモネの花をアルエットの髪に挿してくれたこともあった。退屈だった日々に彩が生まれて、アルエットは名前も知らない青年に心惹かれていった。


 どこの誰なのか知りたい、しかし知ったところで何もできない。おそらく自分は戦果の一部として自国の貴族の誰かに嫁がなくてはならないのだから。


もどかしい思いを胸に秘めたまま、それから三か月が経って城から報せが届いた。デルフィーヌが公爵家に降嫁し、アルエットも王城へ帰ってきてもいいという内容だ。


「私、明日には帰らなければいけなくなったの」


 先にベンチに来ていた青年に、アルエットは俯いて口を開いた。


「それは残念だ」


 彼が立ち上がる。アルエットは何も考えずに彼の胸に飛び込んでいた。


「帰りたくない。あなたと一緒にいたい。私の居場所は……ここだけなの」


 そっと背中に温かい腕が回され、アルエットは瞳に涙を浮かべた。

 彼を困らせてはいけないのに、これが最後だと思うと堪えきれなかった。


「……名前だけでも教えて」


 耳元で囁く彼の低い声に「アルエットよ」と彼女は答えた。


「アルエット。俺はフェザンだ。いつか君を迎えにいくよ」


 ――いつかっていつ?


 そんな言葉が喉まで出かかったが、これ以上フェザンに迷惑をかけられない。紡げない言の葉が涙となって頬を濡らした。

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