第2話 隻眼の青年
ミスダールは、堅牢な門で守られており、護衛がいつでも立っているので、通行できるのは許可された一部の王侯貴族のみだ。それゆえ、貴族が供をつけずに歩けるほど安全な場所としてよく知られていた。
雪が降り続き、アルエットはその中の屋敷の一室にいたが、世話をしてくれる使用人はいても、その態度は素っ気ないものだった。おそらく王妃から何か話を受けているのだろう。
痛い思いをしなくていいだけ幸せなのかもしれない。
独りでいる寂しさを無理やり心の奥に押し込んだ生活が三か月ほど続き、ようやく雪も解けてなくなったある日、彼女は強い立ち眩みがして倒れてしまった。
「顔色が悪いですね、お熱もありませんし、少し外へ出て体を動かした方がいいようです。ここは犯罪の心配もない安全な町ミスダールですから、散歩でもしてみたらいかがです? 町には図書館もございますよ」
そう言って往診の医者は帰っていった。
「図書館……」
翌日、アルエットは一人で町へ出た。人影はまばらだったが、まったくないわけではないとわかってホッとする。
春先のまだ弱い日差しにさえ眩暈がして血の気が引いた。ほんのわずかな距離を歩いただけで息切れしてしまい、すっかり体が萎えていることに驚く。
休み休み図書館へ向かうと、中は蔵書で埋め尽くされており、興味の惹かれたタイトルの本を一冊借りて出た。
図書館の扉を開けると、強い風が吹いてアルエットは思わず目を閉じる。ドレスの裾が大きくめくれて、慌てて手で押さえた。
「!」
目を開けたアルエットの胸元にはらりと長い髪が垂れてハッと顔を上げ、後ろ髪に手をやる。
「リボンがない――」
髪を一つに結んでいた白と黒のストライプのリボンが今の風で外れてしまったらしい。振り返ると、再び風が吹いてリボンがあっという間にさらわれてしまった。
――あれお母様の唯一の形見なのに。
生まれる前に母がつけていたものだと乳母にもらったのだ。
本を抱えたまま、アルエットはリボンを追いかけて図書館のそばの公園に入ったが、たちまちリボンの行方を失ってしまう。
植え込みの中にぽっかりとそこだけ空間ができたような場所に出て、アルエットは息を切らしながら芝生に膝をついた。ベンチが一つあるだけで他には何も見当たらない。
翡翠の瞳が潤んで、膨れ上がった涙がぽろりと頬を零れ落ちた。
「もう、いや……」
今まで耐えてきたことすべてを放棄したくなって、アルエットは泣き出した。いくら泣いてすぐにまた涙が滲んでくる。体の中のすべての水分が涙に変わってしまったのではないかと思うほど涙が止まらない。
「……なぜ、泣いている?」
ふと植え込みの陰から男性が現れて、アルエットはびくっと肩を震わせた。
見たことのない青年だ。
ミスダールに入れるのは本当に限られた身分の者だけなので、見覚えがないということはエグマリンではない別の国の人間なのだろう。身なりもきちんと整えられている。
漆黒の髪は月影を落としたような静謐な輝きがあった。その長い前髪に隠れるように右目には眼帯をつけていて、左目は神秘的な瑠璃色をしていた。その瞳が真っ直ぐ彼女を捉えている。
「あ、あの……」
咄嗟に俯いて髪の毛をぎゅっと一つの束にして掴む。
「リボンをなくしてしまって……」
そう言うと、青年はアルエットの頭上を指さした。
「え?」
綺麗な長い指の指し示す方へ目を向けると、木の枝の高い所に探していたものが引っかかっていた。
「あ! あんなところに!」
見つかったのはいいが、到底手が届く高さにない。青年が手を伸ばしても無理だろうとアルエットがため息をつこうとした時、彼が木に登り始めた。
「え? え……っ?」
アルエットがハラハラしている間にも青年は高い所まであっという間に登っていって、リボンを手にすると一気に飛び降りてきた。
「だ、大丈夫ですか?」
驚いて目を瞠ると、青年がリボンを差し出してきた。
「泣きやんでよかった」
なんでもなさそうに言って、吸い込まれそうな澄んだ瞳を細めて青年が微笑んだので、アルエットは思わず顔を赤らめた。
――子どもみたいに大声で泣いたりして、私ったらみっともなかったわ。
「ありがとうございます」
「よほど大切なものなのだな」
「これは母の形見なんです。あの、泣いていたことは誰にも言わないでくださいますか?」
王女が一人で泣いていたなど、それこそ大衆紙が面白がって記事にしそうなことだ。
「ミスダールでは互いの秘密を詮索しない。国益に関わることもあるからな」
暗黙のルールのようなものだ。アルエットも知っているので頷いた。
「本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げてアルエットは逃げるようにその場を離れた。
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