第17話

 ついじっと見てしまっていると、荒神くんは笑った。



「三国に視姦されてるーう」


「えっあっ」


「くだらねーこと言ってないで取ってこいバカ」



 雲雀くんの近くにいたら蹴とばされていただろう、荒神くんは「うわーん寒いよー」なんて冗談めいた口振りで喚きながらザブザブと海の中へ入る。



「……三国、お前男兄弟いんの」


「え、あ、うん。兄が1人」


「……ふーん」


「んじゃ舜の体見ても欲情しねーな」


「そういう話か?」



 男兄弟がいないせいで見慣れないから直視できないとかならまだしも、同級生男子の体を見て欲情するのはどうなのか。ツッコミどころはあったけれど、雲雀くんが短く突っ込んでくれたので何も言わずに済んだ。


 そんな私達の間に、ポンッとビーチボールが放り込まれる。視線を向ければ、荒神くんがザブザブと海の中を掻き分けるようにして戻ってきながら「あーっ、つめてーっ!」と身震みぶるいした。



「マジ死んじゃう、無理、寒い!」


「そんな寒くねーだろ」


「じゃあ入ってみろよ! あー寒い、三国暖めて」


「舜のそれはレイプと同じだから」


「人聞き悪いこと言うなよ! 三国に誤解されたらどーすんの!」



 戻ってきた荒神くんのズボンはぐっしょり濡れていて、砂浜に上がると「うわっめっちゃ汚れた」なんて足をあげてこれ以上汚れまいとしつつ、でもそんなことは到底無理で、ただただ砂にまみれていく。桜井くんがそれを指差して「きたねー」と笑っていると、荒神くんはおもむろに桜井くんに飛び掛かった。



「ギャッ! なんだよやめろ! 侑生助けて!」



 そして私達が静観する中、じたばたともがくも甲斐なく、桜井くんは荒神くんに引きずられるようにして海へと落とされた。


 ザブンッと威勢のいい音と共に、桜井くんは背中から海の中に落ちた。荒神くんの「へっへっへ」という怪しい笑い声と「うぇっ、げほっ、鼻に水入った! え、つか寒!」と苦しそうな桜井くんの声が混ざる。



「どうだ、5月の海水浴は」


「さみーよ! 極寒! 死ぬ!」


「おーし次は侑生だ」


「は?」



 ビーチボールを拾い上げて我関せずを決め込んでいた雲雀くんが素っ頓狂な声を出した。この1ヶ月間聞いたことのない、雲雀くんらしからぬ声だ。


「何バカ言って――」


「昴夜、左」


「舜は右な」



 バッとでも聞こえてきそうな素早さで、桜井くんと荒神くんが雲雀くんに突進する。雲雀くんの顔に焦りが浮かんだことは私からもよく分かった。ビーチボールを放り出して素早く駆けだした雲雀くんを、2人が兎を追う虎のごとく追いかける。濡れていない雲雀くんのほうが身軽なのに、荒神くんが早かった。まるでラグビーのタックルのように雲雀くんを捕まえ「おいバカ離せ!」と声を荒げる雲雀くんを、桜井くんと一緒に引きずり、両腕両足を持って、海へと放り投げた。


 ドボンと間抜けな音と共に、雲雀くんが海の中へ消える。当然、すぐに銀色の頭が生えて「クッソ寒ぃ!」と悪態を吐いた。そのまま水浸しの銀髪をかき上げながら、顔にしたたる海水を手でぬぐう。ティシャツはぴたりと体に張りつき、いつも見ている学ラン姿よりひとまわり細く見えた。入学式の日にやってきた怪物の手下が「細っこい」なんて馬鹿にしていたことをつい思い出した。



「バッカじゃねぇの、このクソ寒いのに海なんかに入れやがって!」



 普段のクールな姿からは想像もつかない、甲高い怒鳴り声だった。膝下は海に浸かったまま、雲雀くんは素早くティシャツを脱いで海水を絞り出す。ビチャビチャッと海面で水が跳ねた。



「でもなあ、最初に入れたのは侑生じゃん?」


「ボールを取りに行けって言ったんだよ俺は!」


「あれは侑生のボールが悪かったよなあ、舜がとれなかったもんな」


「取れないテメェが悪いんだろ!」



 ギャンギャンと言い争う3人が3人、5月初旬に全員水浸しで凍えている。


 大体、波打ち際でビーチバレーをすること自体、変なのだ。普通に考えれば、弾かれたボールが海に落ちることなんて簡単に予想がつくのに、わざわざ波打ち際の真横でビーチバレーをすることが変だった。それどころか、もとをただせば、ゴールデンウィークなんかに海に行こうと言い出して、挙句真夏の風物詩みたいな遊びを始めようとするなんて、普通はない。



「……ふふっ」



 それは、あまりにも私の考える〝普通〟から離れていて、思わず笑い出してしまった。



「あははッ!」



 言い争う三人に聞こえるくらい、大きな声が出てしまった。なんなら笑い過ぎて涙が出た。お陰で3人がこちらを見ていると気付くまで暫くかかった。



「あ……ごめん、つい……」


「いやー、許しがたいね」



 桜井くんの声にドキリと心臓が揺れた。ザブザブとその足が波を踏む音を聞きながら、ぎゅっと体の前で手を握りしめる。


 ぺちゃんこになってもなお陽光に反射する金髪の下で、桜井くんはにんまりと口角を吊り上げた。きっといたずらっぽい笑みというのは、こういう笑みをいうのだろう。心臓がさっきとは違う意味で揺れた。


「三国も海に突っ込もうぜ」


「えっ」


「な!」



 冷たい海水に濡れた手に腕を掴まれ、波打ち際まで連れていかれる。海水に濡れ、冷え切った砂の温度が足の裏から上ってきたかと思えば、すぐに海の中まで連れていかれた。波は既に膝下だったけれど、凍えるほど冷たくはなく、むしろちょっとひんやりとして気持ちが良い。


 ただ、あくまで膝下までならであって、全身が濡れるとなると話は別だ。きっと水温は20度すら超えていない。それなのに両腕を引っ張る桜井くんが止まってくれる様子はないので慌てて「ちょ、ちょっとタンマ!」と海底の足を踏ん張った。



「これ以上は服が濡れるから!」


「えー、いいじゃん、俺らこんなだし」


「せんせー、桜井くんが女子いじめてまーす」


「違いますー、一緒に遊んでるんですー」


「そのへんでやめとけよ、嫌われんぞ」


「待って待って! 本当にこれ以上は――」



 思えばそれはフラグだった。自分の意志とは裏腹に進まざるを得ないせいで、見事に足はもつれ「あっ」と桜井くんが目を見開いたのを視界に入れたが最後、ドボンッと私は顔から、桜井くんは背中から海に突っ込んだ。


 溺れたらひとたまりもなさそうな、冷たい海の中。咄嗟に目を瞑ってしまって何も見えなかったけれど、桜井くんの手の体温に、私が繋ぎ止められていた。


 その中からすくうように持ち上げられ「っは」と大きく息を吸いながら顔の海水を拭った。塩水で前髪がべったりと額に張りついている。パーカーのフードには少し海水が入っていた。


 そこまできてようやく、自分が雲雀くんに抱えあげられていたのだと気が付いた。あまりにも力強いせいで、きっと人間に抱えられる猫ってこんな感じなんだろうななんて思ってしまった。次いで、腰のあたりに見える白い腕と背中に触れる体を意識し、一気に緊張感が全身に走る。


 でも雲雀くんにとってはなんともないことなのか、私が立てると分かるとすぐに腕を離された。ほっとする私の前では、桜井くんがまるで水泳競技のように海面に飛び上がる。



「っあー! もう! また濡れた!」


「お前が悪いだろ」


「何で俺は助けてくれないの!?」


「お前は悪いから。三国、大丈夫か?」



 急に海に飛び込まされて、服はずぶ濡れだし、体は冷たいし、髪はべたべただし、正直にいえばコンディションは最悪だった。


 コンディションは、最悪だったけど。



「……全然、大丈夫」



 普通からかけ離れた、あまりにも馬鹿げた自由な遊びに、正体不明の充足感が胸に広がっていた。


 見上げた先の雲雀くんの頬が緩んだ、気がした。ただきっとそれは気のせいで「あそ」と短く返事をして、びしょぬれのティシャツ片手に海を出る。荒神くんも一足先に砂浜へ戻りながら「うへー、さみー」と階段のティシャツを手に取った。

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