第16話

 ザァッと、寄せては返す波の音が段々と大きくなる。ゴールデンウィークの潮風は少し冷たい。磯と潮の香りもまだ薄く、海開きはまだまだ遠いことを五感で理解する。



「三国、ゴールデンウィーク、なにやってんの?」


「えー……と、本読んだり、ピアノ弾いたり……?」


「ピアノ弾けんの?」


「ちょっとだけ」


「すげー! じゃ、今度あれ弾いてよ、『フロッカーズ』の主題歌の」



 桜井くんが言っているのは月9ドラマのことだ。見たことはないけれど、音楽番組でその主題歌が特集されているのは見たことがある。主題歌のタイトルは『ありし日の愛し合い』。ピアノで弾けそうなバラードだった。



「楽譜があれば練習するんだけど」


「んァ」



 音楽をやっている人間からすれば、それはごく当然のことだったのだけれど、桜井くんの反応はそうではない。ということは、桜井くんは音楽にさっぱり縁がないのだろう。



「ほら、あの主題歌って、ピアノだけじゃなくて、ヴァイオリンとかビオラの音も入ってるでしょ? だからピアノ用にアレンジされた楽譜が必要で」


「あー……。うーん、俺、ピアノの音以外分かんねーから。そっか、そういうのが要るのかあ。じゃ楽譜持ってったら弾いてくれる?」



 持って行くってどこに? まさか家に? 頭にはおばあちゃんの家に桜井くんがやってくる図が浮かんだ。アップライトピアノが置いてあるのは、和室ばかりの家の隅っこにある洋室で、私の部屋だ。私の部屋に桜井くんが来る……。


 頭の中にある自分の部屋の図に桜井くんを合成してみる。違和感があるといえばあるけど、ないといえばない光景だった。



「……いいけど、練習してからね」


「あ、マジ?」



 頷けば、桜井くんの顔は目に見えて輝いた。丸い目を見開き、口角が自然に上がり、白い歯が覗く。それこそ、私にも分かるくらい嬉しそうな表情だった。



「約束な! その楽譜探すから!」


「……いい、けど」



 そんなに気に入った曲なの? と聞こうとして、浜辺にいる荒神くんから「おーっす、みくにー!」と声をかけられたので口を噤んだ。


 荒神くんはやけに目立つ朱色の、そしてゆるっとしたティシャツを着ていて、ジーパンの裾を膝あたりまで折っている。対する雲雀くんは、黒いスキニーにネイビーのティシャツと全体的に暗い。夜の海だったらそのまま同化していそうな恰好だけど、辛うじて銀髪のお陰で目立っている。スキニーの裾は気持ち折ってある程度で、濡れるのは諦めたようだ。


 雲雀くんは、私の存在に気付くと顔を向けたけれど、荒神くんと違って手を振ったりはしない。代わりにその手には砂まみれのビーチボールが載っている。


 浜辺に降りる階段にパーカーやらスニーカーやらが置いてあったので、ボディバッグはそこに置いた。私がそんなことをしている隙に雲雀くんと荒神くんはビーチボールでドッジボールを始めている。



「え……えっと、なに? ドッジやるの?」


「いやビーチバレー。ドッジやったら三国にぶつけらんねーから三国とったほうが勝ちじゃん」



 謎のフェミニスト発言に首を傾げながらスニーカーと靴下を脱ぐ。桜井くんも同じくそれらを脱ぎ捨て「ぐっぱーで分かれよー」と無邪気に2人の間に飛び込む。桜井くんに言われたとおりに分かれれば、私と雲雀くん、桜井くんと荒神くんがペアになった。



「三国、ビーチバレーできんの」



 ボールを持った雲雀くんは、片手で器用にボールをもてあそぶ。軽く回転させながら宙に投げ、手に乗せて、また宙に投げ、をボールも見ずに繰り返しているのだ。それだけで運動神経の良さが分かる。



「……できなくはない」


「パーカー脱がなくていいのか?」


「……たぶん」



 5月初旬だ、半袖半パンはまだ寒い。荒神くんと雲雀くんは暫く遊んで体が温まっているのだろう。


 それにしたって、コートもネットもないのにビーチバレーなんてどうやってやるんだろうと思っていたら、荒神くんと桜井くんが、どこからともなく持ってきたバケツに海水を入れ、砂浜に海水でラインを引いた。



「ネットはなし。俺ら適当にやってるから」



 更に、残る疑問は雲雀くんが解消してくれた。口振りからして、いつもこんな遊びをしているのだろうか。イメージする不良像とは妙にちぐはぐに離れているけれど、それは私の勝手なイメージに過ぎなかったということだ。



「つか、急に呼び出して悪かったな」


「全然。何もしてなかったし」


「そっか」


「おっし、やろうぜ」



 桜井くんが袖を肘あたりまで引っ張り、腰を落とした。雲雀くんは変わらぬ仕草でボールを弄ぶ。



「こっち、三国いるからハンデな」


「いいよ、そんなの」


「いーぞ。三国のアタック入ったら2点な」


「おっけ」



 ポーンッと雲雀くんのサーブが、ネットも何もない、仮想相手コートへ飛ぶ。桜井くんがレシーブ、荒神くんがトス、当然アタックは桜井くんで「みくにー、いくぞー」なんて合図をする。


 その合図のとおり、桜井くんのアタックは優しかった。仮想ネットしかないとはいえ、それほど高くも飛ばず、ポンッとこちら側にボールを押すような攻撃だった。お陰で悠々とレシーブができる。


「三国、いけるか?」


「……たぶん」



 印象のとおり、運動神経がいいらしく、雲雀くんのトスは緩やかな弧を描いて落ちてくる。ボールの先にある太陽の眩しさに目を眇めながら、砂浜を蹴る。



「ゴフッ!」


「あっ」



 そして思い切り撃ち落としたビーチボールは、荒神くんの頬に直撃した。横でぶっと吹き出す声がしたし、桜井くんはギャハギャハと笑っている。



「ご、ごめん、大丈夫?」


「よくやった三国、2点だ」


「舜、さすがにそれはださくね?」


「いやいや、ちょっとタンマ!」荒神くんは頬を押さえながら「三国にハンデ要らなくない!? いまめっちゃ痛かったんだけど!」


「三国ィ、なんかやってたの」


「……なにも。球技はわりと得意」


「ほらぁー! 男の顔に弾丸アタック打つ女にハンデは要らねーよ!」


「舜、女子枠でハンデやろうか」


「要らねーよクソ!」



 仮想コートからはじき出されたビーチボールを持って帰ってきた荒神くんのサーブは下からだった。今度は大人しく返そう……と心がけて優しいアタックをすると、再び桜井くんが拾ったので桜井くんの攻撃だ。トスを上げれば、もう手加減はしてくれないのか、砂浜とは思えない足のバネで跳ぶ。



「行っくぞー、次、侑生!」


「いちいち宣言しなくていーんだよ」



 パンッと軽快な音と共に飛んだボールを、雲雀くんは足で拾った。それなのに私の手元に返ってくるのだからすごい。そして雲雀くんのアタックもまた荒神くんめがけて放たれ、今度は顔にこそ当たらなかったものの、腕に当たって弾かれる。



「あ――」



 そのままボールは海のほうへ飛んでいった。荒神くんの「あー!」という声は段々とデクレッシェンドしていく。ポテン、と波の上に乗ったビーチボールは、私達の気持ちなど知らず、ゆらゆらと呑気に揺られ始めた。



「舜、取ってきて」


「いや見ろよ! 海の上! もう無理じゃん」


「無理じゃねーだろ」


「無理っつーんだよこれを! 5月に海なんか入ったら死ぬわ!」


「2月じゃねーんだから。ほら早く行け」


「お前のボールが悪かったのに!」



 ブツブツ言いながら、荒神くんはおそるおそる海の中へ向かい、膝まで浸かってしまったところで必死に手を伸ばす。指先を掠めたボールは荒神くんを弄ぶようにゆらゆらと遠く離れる。



「なぁー! 無理だって! これ以上行ったら俺死ぬって!」


「死なねーよバカ」


「つかパンイチになれば濡れなくていんじゃないの?」


「三国がいるのにそんな格好できるか!」


「私は気にしないよ」


「俺が気にする!」



 一度浜辺に戻った荒神くんはティシャツだけ砂浜に脱いだ。大きめのティシャツ姿からは分からなかったけど意外と筋肉質だ。雲雀くんと桜井くんが小柄だから余計に際立つ。

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