第18話

「え、待って、俺着替えないんだけど」



 その様子を見ていた桜井くんがハッと気づいたように手を口に当てる。桜井くんだけプルオーバータイプのパーカーを着ているので着替えがないのだ。



「大丈夫、私もないから」


「わーい仲間だ」


「わーいじゃねーよ謝れ」



 パーカーを脱いで、雲雀くんに倣って水を絞っていると「三国、これ着てろ」と雲雀くんのマウンテンパーカーを放り投げられた。石階段の上に置かれていたうえに真っ黒なので、陽光を集めて暖まっている。ありがたくないわけがないけど、私がこれを借りると雲雀くんは上裸だ。



「え、いや別に……」


「着たほうがいいぞ、三国。マジで舜に視姦されるから」


「…………」


「あのね、マジでそういうこと言うのやめて? 俺が本当に変態みたいじゃん?」


「お前は変態だろ」


「……お借りします」


「ちょ、待って、三国、着るのはいいけど信じるのはやめて」



 もそもそと雲雀くんのマウンテンパーカーを羽織る。私より少し背が高いくらいだと思っていたのに、いざ着てみるとかなり大きい。なんならショートパンツさえ隠れてしまいそうだ。



「……ありがとうございます」


「別に」



 顎に手を当て、真面目な顔で頷く荒神くんの視線がこちらに向く。その視線がパーカーの上を滑って足に動いたのを見逃すはずがなかった。



「……これはこれでありだな」


「お前、除夜じょやの鐘と一緒に頭打たれたほうがいいんじゃねーの」



 溜息交じりの雲雀くんは、絞ってぐしゃぐしゃになったティシャツを着直している。私にパーカーを貸してくれたがばっかりに申し訳ない。同時に、ボディバッグの中にタオルを入れてきたことを思い出して慌てて引っ張り出した。



「……雲雀くん、タオル使う?」


「さんきゅ」


「え、待って、そういうのあるの? 俺もタオルほしいんだけど!」



 パーカーのせめてものお礼にと差し出すとすかさず桜井くんも出てきた。確かに桜井くんは上裸で、しかもプルオーバーのパーカーなんてティシャツと違って簡単に絞れない。でも雲雀くんは「知らねーよ、お前がその恰好で飛び込むのが悪い」と冷ややかにタオルを一人占めして、銀色の頭をぐしゃぐしゃと拭く。



「寒いんだよ俺は! 死んじゃうよ!」


「死なねーよ。つか俺とお前の条件は同じだろ」


「だったらタオルくれてもいいじゃん!」


「俺は悪くないけどお前は悪い」


「俺だって舜にやられたんじゃーん。あ、てか舜、シャツあるじゃん、貸して」


「やだよ着るから」


「お前ティシャツが無傷なんだからいいじゃん!」



 こんなに喚くことになるなら海になんか入らなければいいのに。不合理としか言いようがなかったのだけれど、そんな合理性とか論理則が、今はどうでもよかった。


「さーくらーいクン」



 そんな中に、誰かの声が、水を差す。私達が顔を上げると同時に、荒神くんが誰より早く「ンゲ」と小さくうめいた。


 海岸の上の歩道に、5、6人の男が立っていた。その口角は吊り上がっているけれど、それが愛想笑いでもなければ嬉しさゆえの自然な笑みですらないことくらい、私にも分かった。しかも、そのうちの何人かは煙草を吸っていて、煙のくゆる様子に不気味さを感じた。


 あ、これ、間違いなく危ないやつだ。直感したところで、砂浜の上なんて逃げようがない。それを見越して、その5、6人は海岸へ降りてきていないのだろう。



「……なんか用?」


「別にィ、女の子と楽しく浜辺で遊んでるからさぁ、俺達も混ぜてよって言いに来ただけよ」



 中心に立っていた人の視線が私に向いた。あの庄内さんとかいう3年生と似たような、まるでゴリラのように大柄な人だった。緊張で心臓が跳ねる。その視線はそのままゆっくりと、私の顔から胸、足へと動いた。途端、心臓にナイフの切っ先を突きつけられたかのような恐怖が走る。


 その視線が、金髪に遮られた。心臓とナイフの切っ先の間に壁ができる。



「悪いなのび太、この遊び四人用なんだぜ、ってヤツだよ。どっか行って、邪魔」



 その人と私との間に立った桜井くんは、この状況にあまりにもそぐわない軽口で吐き捨てた。


 桜井くんの陰に隠れてしまったから、その人の表情は分からなかった。


 代わりに、ドスン、ドスンとその団体のうち2、3人が海岸に降りてきた。降りてきた中に、中心に立っていたゴリラもいた。



「相変わらず口の利き方がなってねーな、桜井」



 鼻をつく煙草の臭いが、桜井くんをすり抜けて私までただよってくる。その人が桜井くんの目の前に立てば、その体格差のせいで、もう桜井くんという壁は意味をなさなかった。



「しつけられてからピーピー泣いたって遅いんだぜ、桜井くん」



 バンッという音が、一体なにを原因にして起こったのか分からない。


 ただ気付いたときには、雲雀くんに肩を抱かれて、桜井くんから引き離されていた。咄嗟に目を瞑ってしまったせいで、その後5秒くらいも何が起こっていたのか分からず、桜井くんが顔を殴られて蹈鞴をふんだという目の前の状況しか頭に入ってこなかった。



「桜井く、」


「おい昴夜」



 私が悲鳴を上げるより先に、雲雀くんが桜井くんを叱責した。



三国コイツがいんだろ、ちゃんとやれ」


「うへぇ、厳しい」



 ぺっ、と唾を吐き、桜井くんは首を鳴らす。同じように、ゴリラみたいな人が煙草を吐き捨て、砂浜の上で揉むように火を消した。


「可愛い顔が台無しだぜ、桜井くん」



 その後も、何が起こったのか分かっていない。雲雀くんの腕は器用に肩ごと私の体を抱き込み、更に桜井くんから離れた。荒神くんの「うえー」なんて声が近くで聞こえるので視線だけを動かすと、雲雀くんの隣で、何かに参ったように舌を出している。



「やべーな、アイツら誰?」


「あのゴリラに見覚えがある。黒鴉レイブン・クロウだな」



 蛍永人さんが来た日、桜井くんが解説してくれたチームのひとつだ。ということはかなり厄介な相手なのでは――なんて冷や汗が背中を走るうちに「ひーばーりくん」と語尾に音符でもついていそうな陽気な声が向けられた。



「お姫様連れてなーにやってんの。先輩も混ぜてくんないかなァ?」


「舜、お前これ抱えてろ」


「俺? いや無理だよ、抱えながら喧嘩とか無理無理!」



 まるでボールのように、私は今度は荒神くんにパスされた。荒神くんは女好きでうんぬんかんぬんなんて2人は話していたくせに、どう考えても肩の抱き方は雲雀くんのほうが手慣れていた。荒神くんは「いやマジ、えー、無理だって!」とずっと無理を連発していて、狼狽うろたえているのが非常によく伝わってくる。


 それはさておき、砂浜で突如始まったのは、完全に乱闘だった。桜井くんも雲雀くんも、悲鳴を上げる暇もないほど数人相手に殴り殴られ蹴り蹴られを繰り返している。それどころか、相手には鉄パイプのような道具を持っている人までいた。



「荒神くん、警察……!」


「え、いや、そういうの呼んだら余計に後が怖いって。つか相手にされないし、下手し俺らも捕まるし」



 そっか、当たり前だ、桜井くん達にとってはこんなことは日常茶飯事。そんな人が「喧嘩を吹っ掛けられました」なんて言ったって信じてもらえるか分からないし、信じてもらえたからといって警察が四六時中しろくじじゅう警護をしてくれるようになるわけではないのだ。まるっきり意味がない、どころか、荒神くんのいうとおり、それは相手の神経を逆撫でするだけで逆効果だ。



「で、も、これどうするの、っていうかいつもどうしてるの」


「いやいつもこんなだよ、勝てば逃げられるし、負ければそこでおしまい。まー、侑生と昴夜が負けるってことは基本ないけど、この人数だし、三国いるしな……」



 荒神くんの背中から黒鴉レイブン・クロウの人達の位置を確認する。4人は砂浜に降りてきたけど、2人は上の歩道にいるままだ。彼らが歩道に残っている以上、砂浜を海岸線沿いに逃げたってすぐに捕まる。そして私達の後ろは海。川に背を向けるより一層後退を許さない最悪の布陣だ。大体、この人数相手に緊張感がないはずがない。背水の陣なんてまったくもって不要だ。

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