第2話


「……いえ、まあ、誰が犯人か、分かりませんから」

「あー、まあ、そうですよね。だってこれ、犯人、未成年だったんですもんね。実名報道されないから……。でも市内では誰なのかってちゃんと分かってたみたいですよ、祖母から聞きました」


 でもさすがに名前までは覚えてないですね……、と岡本さんは顔をしかめた。


「ただ……市内でも有名な問題児っていうか、やっぱりちょっとおかしかったっていうか。万引きとかそういうレベルじゃなくて、傷害とか、その、強姦とか。そういうのも色々やってた子だったらしいんですよ。怖いですよね」


 それに返事をせず、なんとか苦笑いだけを浮かべて記事を折り畳み、手帳に挟む。


「……じゃあ、すみません。今から接見せっけん──被疑者ひぎしゃと面会なんで、行ってきます」


 岡本さんは「あ、さっきかかってきてた電話の……」と思い出す仕草をする。刑事弁護の配点の電話を取ってくれたのは岡本さんだった。


「でも先生、珍しいですね。刑事事件なんて、うちでやってる人、あんまりいませんよ」

「まあ、そうですよね。でも今日のは当番ですから……」


 岡本さんがよく理解できていなさそうに首を傾げた。岡本さんは秘書歴1年だ。


「刑事弁護の当番をしなきゃいけないって決まってる日があって。ここの警察署に逮捕されてるこの被疑者の弁護をしてあげてくださいって電話があったら、行かないといけないんですよ。今日はその日なんです」

「ああ、そうなんですねえ……大変ですね……」


 納得したような、そうでもないような微妙な返事だった。でもすぐに明るく微笑む。


「じゃあ、今から警察署なんですね。外、雨降ってますし、お気をつけて。いってらっしゃい、先生」

「ありがとうございます」


 重たいコートを片手に、事務所を出た。


 事務所の地下が地下鉄の駅と直結しているお陰で、事務所を出ても傘をさす必要はなかった。その代わり、地下鉄が地上に出れば、電車の音に負けないくらいの強い雨が窓を叩き始めた。普段ならデスクワークばかりで、事務所から出る必要なんてないのに、こんな日に限って当番だなんて、ついてない。

 綾瀬あやせ駅に着いても、それは同じだった。不幸中の幸いは、綾瀬警察署が駅からほんの数分しか離れていないことだった。

 署内に入りながら傘を畳んでいると、視界の隅で受付の人が立ち上がる。


「どうか、なさいましたか?」


 どうやら善良な市民と勘違いされてしまったらしい。少し焦った顔に、三十路に差し掛かっても存外若く見えるのだろうか、なんて考える。


「弁護士です。被疑者との接見に来たんですが、留置場はどちらですか」

「あ、弁護士先生ですか。向こうのエレベーターで、4階です」

「ありがとうございます」


 案内されるがまま接見室の手前まで来て、運が悪い、と溜息を吐く。

 警察署で、被疑者――逮捕されている人と面会できる部屋は一つしかない。しかし、警察署に被疑者は大勢いる。その被疑者一人一人に面会希望があれば、必然、面会待ちの列も長くなる。もちろん、そう毎度毎度行列をなしているわけではないが……。

 面会室前のソファに座るのは5人。中年男性2人、若い男性1人、中年女性1人、若い女性1人……。中年女性と若い女性はコソコソと何かを喋っているので、きっと連れだろう。男性3人はそれぞれスマホを見たりパソコンを見たりしているので、きっと弁護士だ。


 弁護人以外の面会は30分と限られている。女性2人はきっと一般面会だろうけれど、おそらく男性3人は弁護人だ。となると、今日の待ち時間は長そうだ……。午後1時を回ったばかりの時計をみながら、壁に凭れ、溜息を吐いた。


『この犯人とか、知り合いだったりするんですか?』


 仕事をするスペースもないせいで、岡本さんの話を思い出してしまった。床におろしたカバンの中から、そっと手帳を取り出す。その手帳の中に挟んである、四つ折りの記事を取り出した。


 年が変わる度に手帳を新調するけれど、その度に、この記事を古い手帳から新しい手帳へと入れ替える。そろそろ保存に良い、プラスチックのケースか何かに挟んだほうがいいんじゃないかと毎年思っているのに……なかなか、そんなことをする気が起きない。


 本当は、年が変わるたびに捨てようと思っているから。


 その記事を開くと、週刊誌の記事らしい、2頁に渡ったタイトルと写真とが目につく。『不良同士の抗争に犠牲者』という煽りの横には、死亡した新庄篤史の写真がある。ぬっ、という擬態語が似合いそうな顔立ちで、薄ら笑いを浮かべている顔写真だ。


 更にその隣には、一色市にある青海おうみ神社が映っている。記事中には「群青がいわば根城にしていた神社(写真左)」と書かれていた。


『「群青」のメンバーはK.Sくんが起こした事件について「普通、殺しまではしない」と口を揃えた。』


 違う。誰も聞いてくれないのに、つい、そう反論してしまう。「群青」のメンバーはそんなことを言ったのではない。「群青」のメンバーは――侑生ゆうきは「いくら不良同士の抗争つったって、普通、殺しまではしない。アイツが殺したっていうなら、それは事故か、そうじゃなくても何か別の理由があるに決まってる」と話したのに。今でもはっきりと、表情まで思い出せるほど、侑生はそう伝えたのに。この週刊誌の記者は、読者が求めない声は聞こえなかったかのように、こうまとめた。


 手帳を閉じ、天井を仰ぐ。低く古い天井の模様は、祖母の家のキッチンと同じだった。

 もう十年も前なのに、覚えているものだ。目尻に涙が滲むのを感じ、誰に見られるわけでもないのに目を閉じた。

 十年――いや、もう十年以上前だ。この事件が起こったのは2009年、そして――私が群青ぐんじょうに出会ったのは、それよりももっと前。


 この事件の犯人とされている、桜井さくらい昴夜こうやに出会ったのは、それよりももう少し、前の話だった。

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