第72話

「ちょ……っ!?」


「なんでそんな距離を測るように近づいてくるんだよ。普通に近くに来ればいいだろう」


「……いや、流石に、自分が殺されそうになった場所にはそんな簡単に行けないんだけど……?」


「死ぬわけないだろう。俺がそばにいるのに」


「……何その自信……」



 はぁ、とため息をついて自分の手を握っている朱雀に手に、掴まれていない方の手を伸ばして添えるようにおく。



「……!」


「とりあえず、離して下さい。どうせもうすぐ試合なんだから逃げるつもりもありません…、し……」



 そう言って顔を上げた珠璃は、思いのほか近くにある朱雀の顔に驚いて言葉を止めてしまう。朱雀は、恥ずかしがる様子もなくじっと近くで珠璃のかを見つめている。この状況は一体なんなのだと内心で思いながらも、春嘉と同じく、整った顔立ちの男性にこのように近距離から見つめられるのは珠璃にはなれない行為であり、なれないが故に、頬に熱が集まるのをとめることができなかった。



「……お前、意外とこういうのに弱いよな」


「な、なれていないから、です……!!」


「慣れてない方が俺としても嬉しいが、こうも反応があるとむしろずっと揶揄いたくなるな」


「や、やめて下さい……!」


「……なら、一つ、俺の願いを叶えてくれるか?」


「ね、願い……?」



 とにかく、この状況から抜け出せるならと思い、近距離で見つめてくる朱雀を同じように羞恥を覚えながらも見つめ返していると、ゆっくりと顔が近づき、体がビクッと反応してしまう。



「珠璃、いつになったら俺の名を呼んでくれるんだ?」


「……え?」



 予想外の言葉に、珠璃はポカンとしてしまう。しかし、朱雀の方はものすごく真剣だ。



「青龍であるあいつのことは名前で呼んでいるくせに、なんで俺の名は呼んでくれないんだ?」


「……えっと、春嘉さんの時とあなたとでは状況が違うと言いますか……」


「ほら、今も青龍のこと、名前で呼んだだろう」


「いや、だから春嘉さんはその……」


「おまえとあいつの間で何かがあったのだとしても、俺だけ名前で呼ばれていないのは不公平だろう?」


「いや、別にあなたを名前で呼ぶ必要がないだけで……」


「俺はおまえに呼んで欲しいと言っているのに?」



 なぜこんなにもこだわるのか、珠璃にはわからない。それでも、とにかく体を離してほしくてもぞもぞと動いたけれど、掴まれている手は解放する気がなく、気づけば腰に腕を回されて固定されている。



「あ、の……本当に、離して、ほし……」


「俺は、おまえに近づきたいのに?」



 顔が赤くなる。息が上がる。


 ――呼吸が苦しくなる。


 抱きしめてくれる腕の暖かさを知っている。頭を優しく撫でてくれる手の優しさを知っている。それなのに、それをもう二度と、感じることができなくなったという現実が目の前で突きつけられて、苦しさが増してく。


 は、と短く荒い息が吐き出される。そんな珠璃の様子に気づいたのは午の神使。朱雀も少し遅れて気づく。



「……珠璃?」


『どうされましたか?』



 頭の中に、蘇ってくる暖かな記憶のせいで、息苦しい。


 もう、自分には訪れない暖かな環境、優しい手。幸せな瞬間。それなのに、私は、なぜここにいるのかという疑問。



「や、め、て……」


「珠璃?」


「離し、て……」



 痛い。苦しい。どうして。なんで。そんな疑問が渦巻いて。


 あまりに珠璃の切実な言葉に、声に、朱雀は体をそっと離した。自分で自分を抱きしめるように腕を回したその様子を見て、朱雀は驚く。特別何かをしたつもりは全くない。けれど、自分がした行動のせいで、珠璃がなにかを感じ、そして苦しんだということだけはすぐに理解できた。



「……悪かった」



 小さく謝罪して、背中を向ける。


 それに答えてくれる声は、なかった。





 慣れない。それはそうかもしれない。


 けれど、自分はここに存在し、息をして生きているのだ。


 たとえ昔のことがどれほど恋しいと感じても。


 もう、夢見るだけしかできないとしても、昔の記憶にしがみついていたら、ここで生きていたいと思うことができなくなってしまう。


 思い出せ。ここでの奇跡のような出会いを。


 自分を拾い、育ててくれたあの人たちの優しさを、暖かさを。どこの誰ともしれない、薄汚れた自分を拾ってくれた、あの、優しすぎる人たちを。


 ぎゅっと、胸の前で両手を握りしめる。


 過去に縛られてはいけない。未来に向かって歩かなければ。


 ああ、でも。



 ――この旅の、最終的な私の【願い】を聞いたら、きっと裏切られたと思われるだろうな……



 そう考えたら、良心がちくりと痛みを訴えてきた。

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