第71話

それは、とても強い拒絶。ここまでは入ってもいいという境界線は緩く、脆く、すぐに滑り込むことができるのに、これ以上は絶対にダメだ、という所の一線は恐ろしく強固だった。どれほど隙を探しても、どこにもないほどには。



(……珠璃、わたしは……)


「春嘉さん?」


「!!」



 考え込んでいる自分の名前を呼んだ愛しい彼女に視線を向ける。心配そうに表情を崩している様子を見てなぜ、と疑問を覚える。



「どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」


「……いえ、そのようなことは全くありませんが……どうしてですか?」


「ずっと、俯いていましたから……」


「ああ……考え事を、少し」


「……私に、何かできることがあれば、言ってくださいね。できるかぎり力になれるよう努力しますから」


「……ええ、ありがとうございます、珠璃」



 意識して、柔らかな笑みを浮かべる。彼女の信頼が欲しい。けれど、それは彼女への負担になるかもしれない。信頼している態度を見せることも然り。だからこそ、曖昧な態度になってしまった。


 そして、それに珠璃が気づかないはずがなかったのに、春嘉は選択を間違えてしまったのだ。


 そばでそれを見ていた朱雀は、それに気づいた。小鳥もそれに気づいた。けれど、何も言わなかった。信頼の相互関係は当人同士でしかできないことだ。外野が口を挟んでも意味がない。そう言った線引きをできるからこそ、朱雀はその地位に上り詰めたのだ。





 朱雀との試合当日。


 さすがという他ないほどの観客の数に珠璃はため息を一つつく。数回見せてもらった時よりもよほど人が集まっている。



「……人が、多すぎるわ……」


「仕方ないだろう」


「それもわかっているけれど、言いたかったのよ」


「別に緊張することでもないだろう?」


「緊張するわよ……」


「そんなもんか?」



 ふーんと興味なさそうにしている朱雀の隣に立って会話していた珠璃は気になって仕方がなかった。朱雀のすぐ隣にいる動物。真っ白な毛並みを持った美しいその存在に、珠璃は雑念を追い払おうと何度も見て見ぬふりをしようとしたけれど無理だった。



「……あの、朱雀……」


「夏桜だと伝えただろう」


「そんなことはどうでもいいわ」


「……どうでも良くないんだけど?」


「だから、それよりも、その隣にいるのって……」


「ん? ああ、お前は初めてか? 神使だ」



 ですよね。そんな神々しい動物、そんなお目にかかれるもんじゃないですからね。純白の毛並みを持った神使――午の神使はまんまるな目を珠璃に向ける。暫く無言でじっと見つめられて、同じようにじっと見つめ返していると神使が近づいてきた。


 鼻先を近づけてきたため、じっとして次の行動を待つ。


 突然動いて驚かせてはいけないと思っていたのだが、少し鼻先を近づけていた神使はすっと後ろに下がる。何かを確認していたのだろうかと思い首を傾げた瞬間。突然自分が何か大きな影の下に立っていることに気づく。何事かと思い顔を上げれば目の前には前脚を高く上げ、そしてそのまま自分に向かって下ろしてくる光景。


 なぜ突然、自分が神使に攻撃されようとしているのか、全く理解できず、体が硬直してしまう。


 高く振り上げられたその足が自分に落ちてくるのを、嫌にゆっくりに感じながら珠璃が呆然としていたが、足が珠璃に届く前に腰を掴まれ思い切り引き寄せられ、気づけば抱き上げられた自分に気づいたのは、その状況を理解してからだった。



「……おい、午、いい加減にしろよ」


『……夏桜、なぜ邪魔をするのです?』


「いや、どう考えたって珠璃が危なかっただろうが。お前の重さをこいつが耐えられるわけないだろ。俺だってギリギリなのに」


『いいえ! 別に彼女に寄りかかろうと考えていた訳ではありません! 人間社会に根付いている習慣の『抱擁』をしようとしただけです!!』



 ……抱擁? いや、確実に下敷きにされそうな勢いだったんだけど? と言葉に出せればいいのだが、いまだびっくりして言葉を発することのできない珠璃はただ呆然とその話を聞いていることしかできない。


 朱雀が片腕で珠璃を抱えていることに羞恥を感じることもできないまま珠璃は混乱した頭で現状を理解しようとする。



「……ほらみろ、お前のわけのわからん行動のせいで珠璃が混乱しているだろ」


『なんと! 乙女の心を惑わせてしまうほどわたくしは美しいということですね!』


「……おまえ、いっぺん死んでみたら?」


『なんということを言うのですか! わたくしは神使ですよ!?』


「性格に多大な問題があってもなれるんだな、神使って」


『朱雀!?』



 ……目の前で繰り広げられている会話何? と思いつつ、珠璃はそっと朱雀たちから確実に距離をとっていた。とにかく巻き込まれないことが一番である。


 が、さすがは朱雀。珠璃が離れたのを気配で感じたのか、くるりと振り向き、珠璃に手招きをする。いや今そっち危ないと思うんだけど、という声なき声で訴えてみたが、朱雀も諦めることなく珠璃をじっと見つめていたため、今回は珠璃が折れて少しだけ近づいていく。そろそろと距離を測りながら近づいていたが、朱雀がそんな珠璃のまどろっこしい行動にイラついたのか、手を伸ばし、ぐっと珠璃の手首を掴んだかと思うと思い切り引き寄せられる。

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