第64話




 次の日。


 朝早い時間から珠璃は再び目が覚めていた。


 吐き出す息は、全力疾走した後のように浅く早く。身体中には嫌な汗が滲み、浮かんで流れている。寝台の上で体を起こすことなくしばらく息を整えることに集中して、珠璃は落ち着いてきたのを自覚すると、そのまま体を上半身だけ起こした。枕のすぐそばには小鳥が小さくなってまだ寝息を立てている。小鳥を起こさなかったことにほっとしつつ、寝台からそっと抜けだす。



(……昔の、夢……)



 遠い過去の夢。今はもう、手に入らないものを全てこの手に持っていた時の過去。


 泣き叫んだって、喚き散らしたって、どれだけ惨めに希うように頭を地面に擦り付けたって。それはもう、珠璃の手に戻ってくることはない過去での出来事。


 こうして、たまに夢に出てくるのは、いまだに自分が恋しく思っている証拠だ。未練を抱いている証拠なのだ。春嘉の国ではさまざまなことがあり、休む暇が少なかったのもあって夢を見ること自体、ほとんどなかったが、この【南夏国】では大きな問題を抱えている訳ではなく、基本的には平和なため久しぶりに過去の夢を見た。



「……未練がましいにも、程があるわよ、私……」



 自分で自分を嘲笑するしかできない。ここにきてから、もう諦めるしか無いという現実を突きつけられたではないか。それなのに、まだ根に持っている。捨てられない。それが――珠璃にとって、大切すぎる【思い出】だからこそ。


 そこまで考えて、珠璃は無理やり自分の思考を断ち切る。今そんなことを考えても仕方のないことだと。目下自分が目指すべきは、早く朱雀から紋章をもらうことだ。それ以外に、選択肢が与えられていないのもあり、そして珠璃自身が望んでいることでもある。


 たとえその先にどれほどの絶望が待ち受けていようとも、もう、受け入れるしか選択肢は残っていないのだから。







 賑わいを見せる舞台。その観客席に珠璃たちはおり、眼下で繰り広げられている戦いを見てどう反応すればいいのかわからなかった。


 朱雀の出した条件の武闘大会を眼下に、珠璃と春嘉、そして小鳥は改めて思い知ったのだ。


 この【南夏国】は本当に武闘派集団なのだなと。


 男性も女性も関係ない。各々が武器を手に持ち、互角に叩き合っている。男性は相手が女性だからと言って手加減などしていないし、逆もまた然り。負けないという闘志を全身にみなぎらせ女性も男性の隙をついて攻撃を的確に与えている。息を呑むほどの試合に思わず目が釘付けになるのも仕方がないだろう。



「どうだ? 俺の国の国民は」



 そう言って声をかけてきたのは朱雀だった。


 燃えるような赤い髪を靡かせて、朱雀は珠璃たちに近づく。



「他の国の連中からは、粗野だとか、品がないとか言われているがな。それでも、俺は国民が好きだ。己を高めるために研鑽を怠らず、誰が相手でも全力を持って相手をする。手を抜かないのは、相手を自分より下に見ていないという証拠だ。どんな時でも【対等】でいようとする我がた民の姿勢は、話で聞くよりもよほど尊いものだろう?」



 太陽のような笑顔で、自慢げに自国民の話をする朱雀に、珠璃は少し驚く。本当に自分の国のことを、自分の民のことを大切に思っているのが伝わってくる。



「朱雀……」


「なぜここにきたんですか……」


『暇人だな、お前』


「おう、珠璃以外の言葉には言い返したい気持ちは山々だが、ここは黙っとくとしよう」



 何も黙れていないけど、と思いつつ、珠璃が朱雀に体の向きを変えると、朱雀も珠璃をしっかりと見下ろして笑みを向ける。



「俺の国はどうだ? 珠璃」


「すごく、いい国だと思います。朱雀」


「夏桜だ。いいかげん、名で呼べ。珠璃」


「まさか。国の頂にいるお方にその様な畏れ多いことができるはずないじゃないですか?」


「……取ってつけたような言い訳だな。まあいい。それよりも覚えているか? 約束」


「ええ。私が試合に勝ったら紋章をくれるんですよね?」


「ああ。だが、俺が勝った時の褒美を決めていなかっただろう?」



 突然の言葉に、そう言えばと思い出す。確かに自分の方は条件をつけたのに、朱雀の方からは何も言われていない。その事を自覚して珠璃はこくりと頷いた。



「だから、考えてきたんだよ。お前から、俺への褒美を」


「……まあ、別になんでもいいですけど……」



 この時の珠璃は、考えても見なかった。朱雀が提示することはきっと国から出ていけということぐらいだろうと思っていたから。こんな迷惑、そう何度もかけられたらたまったものではないのだから、さもありなん、と考えていたのである。


 しかし。



「よし。今お前からの言質はとったからな。――お前から俺への褒美は、お前が俺の嫁になることだ」



 しん。と。


 その場の空気が凍ったのは言うまでもない。


 ただひとり、その言葉を発した朱雀だけが、満足そうに何度も頷いていた。

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