第39話

それにハッとしたように春嘉が視線を下に向ければ、腕の中には兎の神使が大人しく収まっているのを自覚する。ふわふわの真っ白い毛並みを見、ピンとたった長い耳を見、真っ赤な瞳と視線が交わる。微かに涙目になって言うように見えるのは、先ほど珠璃に投げられたためだろうと予測できる。


 そんなふうに、腕の中でおとなしくしている兎の神使に春嘉は驚きを隠せない。



「……何故……」



 そう小さく疑問が口をついてしまう。それを耳聡く拾った兎の神使が答えた。



『あなたが、信頼にたる人間だと理解しているからです』


「!?」


『たしかに、ボク達はあなたに対し酷いことをしました、青龍。しかし、それは決してボク達の本意ではないと今お伝えします。ボクも、寅も、あなたの事はちゃんと認めています。今更と思われると思いますが、これが偽りなくボクたちの本心です!』



 そう言った兎の神使に、春嘉は言葉を返すことができない。


 どうしてそんなことを言うのかと言う感情と、見捨てられていたわけではないと言う安心がごちゃ混ぜになってしまう。


 ふと、視線が珠璃に向く。こげ茶の瞳が自分を見つめている。その瞳の奥に、たしかに見たのは寂寥の色。驚いて、思わず手を伸ばそうとするけれれど、腕の中には兎の神使がまだいて腕を伸ばすことができない。次の瞬間には、先ほどの寂寥をも全て包み隠す珠璃が目の前にいた。



『青龍……?』



 不安そうな声で語りかけてくるその声にハッとして春嘉は腕の中を見て兎の真紅の瞳と視線が交わった。


 自分の言葉を信じてくれているかどうかの不安が見て取れる。春嘉は、そんな兎の神使の様子を見て何かが胸に落ちていく感覚になる。だからこそ、ふと自分でも意識しないうちにその優しい笑みが溢れた。それを見た兎の神使が真っ赤な目を見開く。



「……先ほどの言葉が嘘だとは思っておりません。ただ、まだ信頼が築けていないこの状況で、全てを鵜呑みにすることも、わたしにはできない。なので、もう少しだけ待っていてください。あなたのその言葉に、心からの感謝ができる日まで」


『……はい、わかりました。寅にも、そうお伝えしてもよろしいですか?』


「はい。……また、謝罪にも伺わせていただきます」



 そう言った二人の間には、すでにほとんどの蟠りは消えて居るようだったのを見て、珠璃は安堵の笑みを漏らしたのだった。



「……では、戻りましょうか? 寅の神使様が戻ってくるのを待った方がよろしいですか?」


『いえ、寅はきっと気を使ってこちらにきていないのだと思います。なのでこのまま戻りましょう。それと青龍、ボクを珠璃さんのところへ連れて行ってもらってもよろしいですか?』


「? 構いませんが……」



 突然のその言葉に首を傾げながらも、春嘉は珠璃の方へと足を進める。珠璃の方をふと見て、彼女のその悲しそうな笑みを目撃し、なんともいえない気持ちになる。頭の上に乗せていた小鳥を掌に乗せ替えてその指先で小鳥を弄んでいるのを見つめながら、少しずつ近づいていく。


 その時、晟が珠璃に近づいたことに気づく。ここ数日そうであったようにまた珠璃を口説くのだろうと深く考えなかった春嘉だったが晟が珠璃のそばに近づいたことに気づいた兎の神使の反応は顕著だった。



『珠璃っ!! 危ないっ!!』



 叫び声が珠璃に届く。その瞬間――珠璃に近づいた晟の手に握られていたものが目に入り、春嘉は驚きすぎて声が出なかったけれど、その分、歩いていたはずの体が一気に駆け出す。


 光る刀身に体が焦る。足がもつれてつまづきそうになり、無意識に兎の神使を片手で抱えて空いた手を前方に――珠璃に向かって伸ばした。



「――――悪いな、娘」



 そう言った晟の声は、驚くほどに冷たくて。


 気づけば、春嘉は声を上げていた。



「珠璃――!!」



 閃めいた刀身が目に入る。あんな間近で、たとえ武術の心得があるとは言ってもただの女子が受け止められるはずのない、男の本気の一撃。思わず、目をつむってしまった春嘉の耳にはしかし、不思議な音が響く。


 ガリっと、地面に何かが減り込むような、そんな音。それでも、恐る恐る視界を開けていくと、そこには不思議な光景が見えた。



「……如何して、珠璃が……晟、を……」



 組み伏せているのか。


 そう声に出したつもりだったのに、声が出てこなかった。そばにいたはずの鈴は突き飛ばされたかのように地面に尻餅をついたままの状態で、目の前で繰り広げられた光景をただ呆然と見つめてることしかできない。



「――びっくりしました? 晟さん」


「……っ、お、前……っ!!」


「気付かない方がどうかしていますよ。あ、これはあくまで私がよそ者だから、と言う意味ですよ? あなた達を馬鹿にした訳ではないのでそこはあしからず」




 そう言って、にこりと微笑んで春嘉と鈴に笑みを向ける珠璃に、二人は状況が全く飲み込めないでいる。


 押さえつけられている晟が悔しそうに表情を歪めているのはわかる、けれど、それだけだ。何故そのような状況になったのかわからない――いや違う。わかりたくない。

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